俳句についての独り言(2023年)
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 風光集鑑賞(11月号) 2023.11.1 
 風光集作品鑑賞(9月号) 2023.8.1 
 戦争は最大の環境破壊  2023.7.1
 風光集作品鑑賞(7月号) 2023.7.1 
 秀峰集俳句鑑賞(6月号) 2023.6.1 
秀峰集俳句鑑賞(5月号) 2023.5.1 
 秀峰集俳句鑑賞(4月号) 2023.4.1


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風光集作品鑑賞(8月号より)

かきつばた雨の匂ひの風重し      栗田せつ子

牡丹散るひとひらごとの重さ持ち    谷口千賀子

やんま生れ翅の重さを広げたる     玉井美智子

 俳人は時に理に合わぬことを詠む。その一例として測定出来ない「重さ」に着目することがある。私のような理系の人間にとっては「重さ」はすべて数値化出来ると思ってしまう。ところが俳人の手にかかるとそんなことは関係ないらしい。ただ「伊吹嶺」の人にとっては〈空気重しあまりに咲きし桃の上に 細見綾子〉の句がルーツとして掲句が発せられたのではないかとも思う。今月はこの「重さ」を詠んだ句を見ていきたい。

 せつ子さんは「かきつばた」に吹く風に重さを感じている。そのきっかけは雨の匂いが重さをもたらしたものとしている。それはさらに〈何といふ風か牡丹にのみ吹きて 綾子〉のように「かきつばた」には特別な風が吹いていると思ったのではないか。

 谷口さんは普通重さを感じることが出来ない牡丹を詠んでいる。あの分厚い「はなびら」を見ていると、重さがあることに納得する。それは〈牡丹散て打ちかさなりぬ二三片 蕪村〉のぼてっとした重さに通じるからであろう。

 玉井さんの句集『海ほほづき』を読むと数多くの虫などの小動物を詠んでいることに圧倒される。例えば、

  測られてはんざき太き身をよぢる    玉井美智子

を見ると、動物をつぶさに観察していることが分かる。まさに『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」の世界である。その姫君が詠んでいる掲句の「やんま」は大きな翅を持ち、そこにも重さがあると詠むことは小動物への優しい眼差しを持っているからであろう。

 

外灯の照らす八十八夜の田       武藤 光晴

 大胆な破調の句である。私は近年、至るところの夜の明るさが気になっている。防犯上の理由もあろうが、夜間、家屋が全くない田んぼにも外灯が明るく照らしている。そこで問題になるのが、外灯の明るさは稲が咲いたあとの出穂遅延をもたらし、白濁した米が収穫される場合もある。防犯が光害をもたらしている例である。ただ防犯と稲の登熟の折り合いをつけることは可能になりつつある。

 掲句はまだ田植え前の八十八夜の田で、明るい未来に満ちた句であるが、自然は微妙であることに留意したい。

 

涼しさの言葉いくつもかけられし    渡辺かずゑ

 何という涼しさに満ちた言葉であろうか。この「涼しさ」の中から私は、〈あぢさゐや逢はば涼しくもの言はむ 細見綾子〉を思い出す。綾子先生は人と逢うときに交わす言葉は涼しくありたいと思っている。

 そして掲句に戻ればかずゑさんは友人から掛けられた言葉は涼しさに満ちていると認識した。ただそれは単に「涼しくなったね」程度のあいさつかもしれないが、綾子先生と同様に「涼しくもの言はむ」という態度を信条としているのであろう。

 

時の日や夫との時間止まりゐる     加藤 百世

 掲句はこうして活字になると、解釈に間違いは起こさないが、実は愛知同人句会で作者の背景を知らないで頂いた句である。その結果が作者の心情通りの句であったことに安堵している。百世さんはご主人を亡くされてどのくらいなのであろうか。ただ期間に関係なく、ご主人とともに暮らす時間は生前のいとなみのまま時間が止まっていることに気づいたのである。時の記念日であればなおさら時間が止まっていることを改めて認識したのである。ここにご主人への深い愛情が見える。

 

髪切つて立夏の青き風浴ぶる      牧野 一古

 夏の心情はかくありたいと思っているような句である。夏になっていち早く実行すべきことは髪を切ることだと信じているようである。「髪切つて」の促音便の勢いのよさと「立夏の青き風」と断定的に詠むことが夏への期待感を込めている。この風は「青嵐」ほど強くなく、「風青し」ほど単純でなく、「立夏の青き風」でなければならないと考えているのであろう。新しい感覚の夏の季語である。

 

南座へ夏帯締めて紅差して       酒井とし子

 とし子さんは句会参加の時でも、日常生活の時もいつも和服が似合う方である。時々、犬山吟行などで案内して頂くときもそうである。

 ところが掲句を見ると、和服でもさらに引き締まった印象を受ける。南座へ出かけるとあれば、まさに晴れの日で口紅も差すのである。しかし生活感のある「夏帯」の印象から恒例の顔見世でなく、気軽な舞台を見に行ったのではないか、いろいろと連想が膨らむ「夏帯」である。

 

木の橋の手摺りの湿る芒種かな     小原 米子

 一点集中の感覚のさえた句である。以前、私は現代俳句評で、〈欄干の手にざらざらと冬ざるる 宮谷昌代〉を鑑賞したことがあったが、この句は橋の欄干のざらつき感から冬の本質を詠んだものであったが、掲句も同様に「橋の手摺り」の湿りの感覚から芒種という微妙な肌触りを表現している。「伊吹嶺」の即物具象は五感を動員して具体的に物を詠むことにあるが、もっと触覚から一物写生を行うアプローチもあってもよいのではないかと思っている。

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風光集作品鑑賞(6月号より)

今月号も前回に引き続き、ウクライナ侵攻を詠んだ句に注目したい。

鳥帰るウクライナ旗と町旗揺れ     髙橋 幸子

「侵攻」の消えぬ紙面や春愁      奥山ひろ子

朝刊に錆濃き戦車冴返る        武田 明子

今朝もまた戦ひの記事浅蜊汁      栗山 紘和

ひとひらの花を命と思ふべし      松井 徒歩

身を焦がす青き地球よ受難節      伊藤みつ子

 一句目、長野県の立科町ではひまわりの栽培とともにウクライナ国旗を掲揚しているようだ。髙橋さんは既に昨年の六月号で〈梅東風やウクライナ旗を揚ぐる町〉と明るい未来の期待を込めて詠んでいる。そして掲句でも北方へ帰る鳥にウクライナ支援や平和へのメッセージを込めて詠んでいる。「鳥帰る」に北方の平和への祈りを託している。

 掲句のように「鳥帰る」の句に出会うと、私は〈三月十日も十一日も鳥帰る 金子兜太〉の人間が犯した所業に対する批判精神を詠んだ句が思い出される。兜太がこのウクライナ侵攻を見たら、どのように詠むだろうか。

 二句目から四句まではいずれも新聞紙面の侵攻ニュースを通した日常を詠んでいる。季語としてそれぞれ「春愁」「冴返る」「浅蜊汁」に思いを託している。例えば栗山さんの句は、昨年『俳句』誌で発表された〈ウクライナの瓦礫の映る蜆汁 鈴木厚子〉のように、まず朝一番に蜆汁、浅蜊汁をすすりながら、日常生活に侵攻の悲劇に思いをはせて平和への希求を詠んでいる。

 五句、六句目はそれぞれ発想を飛ばして、別の視点でウクライナの悲劇を詠んでいる。

 五句目は眼前の散りつつある桜のひとひらずつがウクライナ市民の命ではないか。桜には命が宿っているに違いないと詠んでいる。

ただ掲句の「花」と「思ふべし」のフレーズからたちまち〈花あれば西行の日とおもふべし 角川源義〉を思い出す。源義は西行への思いを花で詠んでいるが、松井さんは花から市民の命を詠んでいる。両句とも桜は命を象徴するものであることを詠みたかったのではないか。

 六句目、侵攻で本来の青い地球が焦土化している現在は、キリストが受難を受けた最後の四週間ではないかと、地球の行く末を危惧している。ただウクライナにもそのあとにやって来る復活を願う気持ちが内在していると見た。

 

逝きし子の病窓を打つ花の雨      武藤 光晴

 今年の春、武藤さんは次男さんを亡くされた。あまりの進行の早さに癌が判明した時は既に手遅れだったと聞いている。たまたま関東支部では武藤さんを含めて三名の方がお子さんを亡くされている。逆縁とは本当につらいものである。桜の真っ只中に窓を打っている一つ一つの雨筋が亡き子の思い出につながっているのであろう。

 

春光や屈み見る草仰ぐ木々       伊藤 範子

 前書きに「牧野記念庭園」とある。今テレビに放映中の「らんまん」に重ね合わせて読むと、牧野博士が草も木々の一つ一つが愛すべき存在として植物採集していたことが読者に伝わってくる。「草」と「木々」のリフレインが植物すべてに対する愛情を述べるのに効果的である。

 

佐保姫の吐息ほどなる通り雨      坪野 洋子

 「佐保姫」は空想上の季語であるため、即物具象で詠むには難しい。荒川英之さんは今年の『俳句』六月号の「鑑賞に生かしたい豊かな季語の世界」の佐保姫の項で「架空季語においても自己との結びつきを具体的に描き出すことが肝要である。」と述べているが、掲句では通り雨を佐保姫の比喩として詠んでいる。眼目である「吐息ほどなる」と具体的に自分に引き寄せた感性がすばらしい。

 

散り際に紅濃くしたる桜かな      桐山久美子

 桜の種類は実に様々であり、満開や散り際に愛でる色も多様性に満ちている。掲句の散り際の紅といえば、染井吉野でもないし、文字どおりの淡墨桜でもない。ということは掲句は山桜と判断した。それは私自身、全山が紅色となる吉野の山桜を見た記憶が強いためでもある。必然的に〈谷へちる花のひとひらづつ夕日 綾子〉の山桜につながる。この夕日色に赤く輝いている山桜と同様に、掲句の場面は特に何も言っていないが、夕日に照らされた山上からの山桜だと鑑賞した。

 

風生まれ一息おいてさくら散る     上村 龍子

 前掲の桜の色に続き、桜の時間を詠んだ句を抜いてみた。

 かつて細見綾子先生は句集『伎藝天』のあとがきに「私は今一番何が関心事であるかと問われればそれは時間だと答えるだろう。」と述べたように、この句集には時間の尊さを詠んだ句が多い。例えば、

竹落葉時のひとひらづつ散れり    細見綾子

女身仏に春剥落のつづきをり       〃

一句目の「時のひとひら」のように時間そのものを詠んでいる。また二句目の「春剥落の」には伎藝天の永遠の時間の流れを詠んでいる。

 そして掲句に戻れば、より明確に時間を詠んでいることが分かる。桜の最も美しい時は風によって引き起こされる桜吹雪であろうが、さらに「一息おいて」の時間の動きが最も桜が美しいと結論づけたのである。



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環境と俳句

    戦争は最大の環境破壊

 ロシアのウクライナ侵攻は既に14か月が過ぎ、戦闘は長期的な様相を見せている。この侵攻の影響はあらゆる面に及び、最も痛ましいのは多数の死者が出ていることである。また食糧、エネルギー危機も深刻である。これらとともに多くの環境破壊が進行しつつある。

 これまでのニュースなどから環境問題を考えてみたい。まず食糧危機では、ウクライナは世界有数の穀倉地帯であり、各国への食糧危機へと発展している。戦火による穀倉地帯の土壌汚染も深刻である。

 エネルギー問題としては、戦争による膨大なエネルギーを消費するとともに、化石燃料への逆行的依存によりCO2削減目標を大きく狂わせている。

 もともと戦争はおびただしいインフラ破壊を伴う。いずれインフラの復旧、復興には膨大なエネルギー消費が予想されるとともに、これもCO2排出による温暖化が加速されるだろう。

 またウクライナ国土破壊による土壌汚染、永久凍土の急激な減少により温室効果ガスであるメタンガスの放出は予想以上の温暖化傾向となっている。

 一方、ロシア側からの見た侵攻の原因について、経済思想家の斎藤幸平氏によれば、この侵攻はロシアによる気候危機の懸念から侵攻に至ったとの論点の発言もある。

 ではウクライナ侵攻による環境影響への具体的数値はどうかと言うと、終焉時期が不明であるため、予測できないが、22年秋時点で、欧州議会の「環境公衆衛生食品安全委員会」では、内訳は省略するが、ウクライナ国内での環境被害は総額360億ユーロ(53兆円)と試算されており、土壌汚染、大気汚染などにも言及している。また侵攻後の国内インフラ復興によるCO2排出量増加にも言及している。さらに水資源損失、灌漑、排水などの施設復旧などに使用するエネルギー消費にも触れている。

 この環境破壊の実情に対し、日本での反応は芳しくない。

 一方、私たち俳人にとってこの侵攻をどのように詠まれてきたか、また今後詠んでいくべきかが問われているのではないか。以下これまで私が鑑賞してきた俳句を披露して、皆さんも考えていただければ幸いである。

  ヒト争ひ極地の氷溶けつづく      矢島 渚男

  侵攻や音たて氷水くづれ        今瀬 剛一

  鰻焼くプロパガンダと砲撃と      河原地英武

  うすらひや楽器を鳴らせ武器捨てよ   鳥居真理子

  ピアノ弾き終へて瞑目冴返る      矢野 孝子

 特に音楽に重ねてウクライナを詠むことからウクライナへの哀悼の意と心の安らぎを求める句に共感する。

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風光集作品鑑賞(4月号より)

バンドゥーラ弾く指白し春を待つ    廣中みなみ

春の来ぬ戦火の国の国歌聴く      渡邉久美子

ピアノ弾き終へて瞑目冴返る      矢野 孝子

 ウクライナ侵攻はまだまだ終わりそうにない。日本各地ではウクライナ支援のチャリティーコンサートが行われているようだ。

 一句目、ウクライナ出身のナターシャ・グジーは長年、日本に在住しており、チャリティーコンサートなどでいつもバンドゥーラを弾いている。彼女の指は白く細くても力強い演奏である。真の春が来るのはいつだろうか。世界中が平和な春の訪れとなる音楽を待っている。

 二句目、同様にチャリティーコンサートでは必ずウクライナ国歌が演奏される。国歌の題名が「ウクライナは滅びず」であり、力強い国歌であるが、掲句の「春の来ぬ」からは作者は国歌に悲しげな曲調を聞いたのであろう。

 三句目、ウクライナ侵攻後、各地でスコリクを始めとするウクライナ作曲家の曲を取り上げてチャリティーコンサートが行われている。掲句では「瞑目」に着目したところに共感した。よくピアニストは目を閉じて、一曲を弾き終えることが多い。この「瞑目」はピアニストだけでなく、作者も瞑目したに違いない。この瞑目によりピアニストと作者の心が一つとなり、ウクライナへの鎮魂の祈りに共感しているのである。

 

手を握る父の力や春の闇        渡辺 慢房

 掲句を含めて六句はすべて父上が亡くなられたときの絶唱である。筆者の場合、四十八歳のときに父が亡くなったが、当時は俳句を作っていなかったので、父を詠んでやれなかったことに悔いが残っている。掲句は父上との最期の別れであろう。そのときの父上の握る手の強さはいかばかりであろうか。「春の闇」のように現実が夜であっただけでなく、永久の別れは夜が最もふさわしいのである。

 

伊吹嶺に雪降る気配豆を煮る     栗田せつ子

 せつ子さんは俳句を始める動機が日記のように日常生活を詠むことから始められたとのことである。掲句の日常生活の「豆を煮る」ことから一年の終わりに伊吹嶺の季節の移り変わりに思いを馳せており、自然と日常生活を見事に融合させている。かつて「風」同人総会の句会で〈滝水を使ふ暮らしや種浸す せつ子〉の句が多くの方から特選に採られたことが思い出される。吟行句であっても自然との関わり合いに日常生活を融合させる態度は俳句を始めたときから終始変わっていない。

 

亡き友の畑にたゆたふ雪螢       中道  寛

  掲句は昨年亡くなられた兼松秀さんの追悼句である。作者は兼松さんの近くに住んでいた友人で、よく畑仕事も手伝いに行っていたという。これまでのように友の畑に来たところ、雪螢に出会ったのである。ただこの季語はあまりにも悲しすぎる。そんな印象の雪螢である。

 筆者は〈筍を掘り来し友の息弾む 秀〉(句集『独酌』より)を読むと秀さんから筍を頂いた思い出がよみがえる。

 

春立てり遺影の夫の聞き上手      山本 悦子

 作者は長年一人でご主人を介護されてきた。今は遺影のご主人と話し合うことが日常的であろう。その話はとりとめのない話題かも知れないが、ご主人はしっかりと聞いて返事をしているに違いない。それを「聞き上手」と捉えたことは長年の以心伝心の証しである。

 

氷柱折りオンザロックや山の歌     中野 一灯

 冬登山の山小屋の回想であろう。仲間と山の歌を唄うにふさわしい飲み物はもちろんアルコールとなる。山小屋の氷柱は時に二メートルぐらいの長さになることもあり、オンザロックの氷柱にこと欠かない。唄うにつれ、酔いが回る材料は氷柱しかない。

 かつて筆者も同様にスキー小屋で氷柱でオンザロックを飲んだことがあるが、困ったことに小屋のストーブの煙による煤がグラスに浮いてきたことに閉口したことがある。一灯さんはそれとは関係なしに飲んだのであろうか。

 

春潮の紺に変りて伊豆暮るる      髙橋 幸子

句友たちとの伊豆吟行であろう。掲句は〈伊豆の海紺さすときの桃の花 沢木欣一〉の現場に立って、沢木先生と同じ景色、同じ心境を探し求める憧憬の旅なのである。そういう意味で「紺」が師とつながるキーワードである。作者の伊豆の海の夕暮れを見たとき、師が見た紺色と同じであるに違いないと確信したのである。

 

病室の夫眠るらむ寒満月        岡田 佳子

 前書きに「コロナ禍の入院」とある。今や新型コロナ感染者数は日本人口の30%に迫っている。そして五類感染症に移行されたが、これまでの入院患者の面会にはまだ厳しい制限がつけられていた。

 掲句は入院中のご主人を自宅から案じているのであろう。「寒満月」を厳しさと不安感の象徴として捉えている。

 これまで筆者は「現代俳句評」などで新型コロナを見知らぬ病気の社会的現象の動きとして鑑賞してきたが、今後は日常生活の実体験から新型コロナを詠むという位置付けに変わっていくことだろう。




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秀峰集作品鑑賞(三月号より)


意識なき夫の手温し返り花       下里美恵子

冬銀河残されし我如何にせむ        〃

 今月の七句はすべて最愛のご主人への絶唱である。

 一句目、生死の境のご主人と作者をつなぐものは手の温みだけである。この温みが生きて欲しいとの思いの証しなのである。そこへこの世に名残惜しく咲いているような「返り花」を配置したのである。

 次に掲句を含めた今月の七句を見ると、すべて眼前に見えるものか具体的に体感出来る季語ばかりであるが、七句とも実景を超えた作者の心象を季語にしているようだ。

 それを踏まえて二句目を見ると、今や銀河は光害などにより実景ではほとんど見ることが出来ない。ということは掲句は〈再びは生まれ来ぬ世か冬銀河 細見綾子〉の境涯の思いの句が念頭にあったのではないか。綾子は輪廻転生を望みながらそれはないと詠んでいる。そして掲句ももし輪廻転生が可能ならと思ったが、ご主人が再び生まれ来ることはかなわぬと思っている。途方にくれた作者が「冬銀河」と語らって偲んでいるのではないか。

 

「伊吹嶺」を片手に煮物年詰まる    磯田なつえ

庁舎より望む伊吹嶺寒波来る      角田 勝代

雲を脱ぐ初冠雪の伊吹山        長江 克江

伊吹嶺の空の蒼さよ寒の入り      上杉 和雄

ポケットに伊吹嶺季寄せ枇杷の花    丹羽 康碩

 「伊吹嶺」はこの六月号で創刊三百号となった。奇しくも五名の方が「伊吹嶺」をテーマに詠まれている。

 年の瀬の忙しい時期であっても「伊吹嶺」誌を手放さない作者、高い建物から見える伊吹嶺から強い寒波を感じている作者、初冠雪から改めて伊吹山の冬を感じている作者、また晴れた伊吹嶺の空の色から季節の移ろいを感じている作者、そして外出するときも「伊吹嶺季寄せ」を常に携えている作者等々すべて生活に密着して詠み、皆さんは伊吹山という存在、「伊吹嶺」誌の存在を心の拠りどころとして三百号まで積み重ねてきたのである。今や伊吹嶺から離れて生活することは出来ないのである。

 

聞き役に徹してをれば雪霏霏と     井沢 陽子

  掲句はどんな情景か、「聞き役」の状況が気になるところである。それを読み解くのは「雪霏霏と」しかない。限りなく降っている雪から笑いを取るような場面でないことは間違いないが、「聞き役」である自分は悩みなどをひたすら聞くしかないのか、それとも単に世間話の流れについて行けない自分を客観視しているのかが考えられるが、あとは読者の自由な鑑賞にまかせるしかない。

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秀峰集作品鑑賞(二月号より)

みや子師の新婚の家冬桜        牧野 一古

 懐かしい名前の句に惹かれた。一古さんは終始鈴木みや子さんの膝下で学び、薫陶を受けてきた。掲句は何かの折、みや子さんから新婚時代の家を紹介されたのであろう。その家にはいろいろな感慨のあるものを見つけたのであるが、とりわけ「冬桜」がみや子さんにふさわしいと思ったのである。「冬桜」に象徴されるようにみや子さんは常にもの静かで、気品があり、凜とした方であった。

 

落葉踏む日向の匂ひ欣一忌       栗田せつ子

豆腐屋を閉づる貼り紙一葉忌      福田 邦子

香焚きて雨を籠もれり一葉忌      倉田 信子

遠き日の軍艦マーチ開戦日       谷口千賀子

満月の空の広さよ開戦日        若山 智子

 「伊吹嶺」の師系の特徴であろうか、今月も忌日の句が多い。落葉の匂いから欣一を偲んでいる作者、庶民のささやかな出来事や家に籠もっている日に薄幸の一葉を思う作者、そして過去の忌まわしい世相の記憶や満月に見る平和への希求などから開戦日に期するものを感じている作者などそれぞれ立場は異なっても忌日をきっかけに日常生活をつましく、見つめ直すのは日本人であれば誰も同じであろう。そういう生活を詠み続けることが大事であることに思い至る。そして、

  再校の真白きページ漱石忌      河原地英武

  格子越し雨を聞きゐる一葉忌     栗田やすし

 今月号のこの二句を見るにつけ、この師系に学んできたことに感謝せざるを得ない。

 

秋冷の水底にある日の欠片       武田 稜子

 まさに「風」の伝統である即物具象の王道を往く句である。すべて物だけの写生である。水底に「日の欠片」を発見したことが自然界の真実であり、物の本質を捉えている。とりわけ即物具象のお手本にしたい句である。
 事柄俳句のすべてが悪いわけではないが、事柄の面白さをばかりを詠んでいる句に接していると、掲句のような「伊吹嶺」の原点に戻れとの句に接して共感している。

予後の身に熱燗の味戻りけり      田畑  龍

確か以前、卒寿のお祝いを受けられたが、その後、大病を患われてようやく退院された由、安堵している。酒が大好きな田畑さんにとって全快されてほぼ毎日、飲めるまでに回復された今日の酒は格別な味であろう。今後とも予後の身を大事にされて、私たち人生の後輩のよき指針となるような俳句を見せて頂きたい。


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秀峰集作品鑑賞(一月号より)

貌枯れし蟷螂の脚まだみどり      平松 公代

 枯蟷螂の句と言えば〈蟷螂の眼の中までも枯れ尽す 山口誓子〉などが思い出されるが、カマキリは冬になると、枯れ色になるのではなく最初から緑色や褐色の種類のカマキリがいると言う。しかし俳人は誓子のように冬の情緒として枯蟷螂を詠むのがふさわしいのであろう。

掲句は枯蟷螂の中に「脚はまだみどり」と枯れ色の混在を見たが、これは違う種類があることとは関係なく、凝視した結果、混在色に詩を見つけたのである。

 

椋鳥(むく)の群容れて鎮まる夜の一樹     矢野 孝子

 昨今、椋鳥は塒を求めて、街の街路樹、電線に密集して、糞害、騒音などにより近隣住民を悩ましている。しかし本来、椋鳥は一羽あたり年間一万匹の虫を食べると言われており、農家にとっては益鳥なのである。ただ森林開発により椋鳥が本来の塒から都市へ追いやられたのが現実で、椋鳥による被害は人間の勝手で、生物多様性の観点から適切な保護と管理が必要であろう。

掲句は椋鳥を大きく包容している「夜の一樹」の存在に同朋のような存在を感じたのではないか。このような作者の優しい視点が街の椋鳥を詩的レベルまで高めた。

 

括られて立つ残菊の朱をきざす     谷口千賀子

  掲句からたちまち〈くくられて冬菊の香の衰ふる 栗田やすし〉が浮かぶ。栗田顧問は菊の香を主題に取り上げて、掲句は色彩を取り上げている。括られた残菊にまず朱色を発見したところに作者の色彩感覚を見た思いである。それは〈父の忌に薔薇赤々と芽吹きけり〉(句集『薔薇』より)などからも分かる。

 

蕎麦の花雨の匂ひの風吹けり      福田 邦子

 ここまで鑑賞してきたように「伊吹嶺」では、平松氏、谷口氏の色彩感覚、栗田顧問や掲句のような匂いの感覚を描写することに優れている方が健在である。即物具象はある意味で五感を駆使して、それを客観的に捉えることが身上であろう。そういう意味で「蕎麦の花」に雨の匂いを感じた繊細さは「伊吹嶺」を牽引するベテランの味である。

飛べさうな小川を飛ばず秋思の歩    櫻井 幹郎

 一時体調を崩されたと聞いているが、その後の経過はいかがであろうか。掲句は「秋思の歩」となっているが、内心「試歩」ではないかと心配している。ただ「飛べさうな小川を飛ばず」とあるのは、今なお諧謔精神が健在であるのが見えて安堵している。

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