俳句についての独り言(2021年)
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 「現代俳句評」(12月号) 2021.12.1
 子供のための環境学習 2021.11.1 
 「現代俳句評」(11月号) 2021.11.1 
「現代俳句評」(10月号) 2021.10.1 
 「現代俳句評」(9月号) 2021.9.1 
 「現代俳句評」(8月号) 2021.8.1 
 SDGsと俳句 2021.7.1 
 「現代俳句評」(7月号) 20210.7.1 
 「現代俳句評」(6月号) 2021.6.1 
 「現代俳句評」(5月号) 2021.5.1 
 「現代俳句評」(4月号) 2021.4.1 
 「現代俳句評」(3月号)  2021.3.1
 現代俳句評(2月号) 2021.2.1 
現代俳句評(1月号) 2020.1.1


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  現代俳句評(「伊吹嶺」12月号)

秋簾風に遅れて揺れにけり       今瀬 一博

  (『俳句』十月号)

 「風」と「秋簾」の時間差により発生した瞬間を切り取った観察力の鋭い句である。掲句の秋風はただ吹き続けるのではなく、時にはやさしく吹いているのであろう。その間欠的な風の動きに連動して、「秋簾」の動きがはっきりと見えたのである。〈麦車馬に遅れて動き出づ 芝不器男〉もあるが、同様な着眼点を風の動きに発展させた句である。ここに秋風の新しい要素を開拓している。

 

檸檬の香レコード針をあたらしく    中田 尚子

 (『俳壇』十月号)

 ノスタルジーに溢れた句である。近年、音楽はCDかネット配信で聴くのが一般的である。しかし掲句は、針を必要とするLPレコードであろう。次に「檸檬の香」とあるのは、レモンティーを飲みながら聴いているに違いない。もしかしたら檸檬を嗅ぐことがレコード針を取り替える衝動に突き動かされたきっかけになったのではないか。

 

大麻や棚雲かかる田舎富士       柏原 眠雨

          (『俳句四季』十月号)

 作者が住んでいる仙台市郊外の風景であろう。「田舎富士」はいわゆる仙台富士と称されている太白山である。おむすび型をした小振りな仙台富士である。麻畑がある現場には棚雲により強い日差しから涼しさを感じるひとときに移行している。さらにその涼しさから安らぎも感じる愛すべき「田舎富士」である。

 

脱稿し珈琲を濃く夜の秋        高崎 公久

 (『俳句四季』十月号)

 毎月、こなしている原稿書きには結構ストレスを感じる。

ただ書き終えた安らぎに浸りたいからこそ原稿用紙に向かっている。ようやく「脱稿」したあとの解放感にふさわしい行動は〈珈琲を濃く〉することなのである。「夜の秋」は温暖化進行中の昨今、実感から離れた季語であるが、心情的に秋の気配を大切にしたい気持ちが見える。

 

ヒロシマ忌斜陽の国の鐘を撞く     福島せいぎ

          (「なると」九月号)
この九月号が五百号記念号となっている。
 掲句の「鐘」は住職を務めている寺のことであろう。「ヒロシマ忌」に鎮魂の鐘を撞くことに留意するのは「斜陽の国」と断言した作者の心情にある。根底にある平和を願う「ヒロシマ忌」に対して、斜陽化即ち劣化した日本を憂いているのである。鐘を撞くことは劣化した国を平和へ導く祈りに他ならない。

螢の火生命線を照らし這ふ       中川 雅雪

          (「風港」九月号)

  手のひらに乗せた螢火は幻想的な様相を見せる。螢が手のひらを照らす情景はよくあるかもしれないが、「生命線」を詠んだことに着目すべきである。ここから読者は生命のはかなさを連想することにつながっていく。螢であれ、人間であれ、「生命」の尊さに言及した句である。

 

ひと刷けのひかり水面に風薫る     大前 貴之

早苗挿す水に光を足すごとく        〃

           (「雉」九月号)

  手のひらに乗せた螢火は幻想的な様相を見せる。螢が手のひらを照らす情景はよくあるかもしれないが、「生命線」を詠んだことに着目すべきである。ここから読者は生命のはかなさを連想することにつながっていく。螢であれ、人間であれ、「生命」の尊さに言及した句である。

 

サングラス別の世界をつくりたる    塩川 雄三

          (「築港」九月号)

 「サングラス」は変身願望を満たすものを持っている。ただ掲句では「つくりたる」と他動詞で止めていることから「別の世界」には二つの視線があることに気づいた。
 一つは自身の変身を詠んでいる。サングラスを掛けることにより自分が別次元の世界に変身した感覚を詠んだのである。サングラスの効用を実感している。
 次に〈つくりたる〉を能動的に解釈して、作者はサングラスを通して、普段見る世界とは「別の世界」を見たのである。サングラスというフィルタを通すことにより世界の裏側までも見た作者の視線である。
つまりサングラスを通すことにより変身した自分と別世界の存在を実感した多様性を見たのである。

 何もせぬ自粛の疲れハンモック     櫻井 幹郎

  (『俳壇』十月号)

 昨年来の新型コロナウイルスにより自粛生活を余儀なくされている。自宅に自粛だけなら、身体を持てあます程度だが、作者は疲れを感じたのである。〈何もせぬ疲れ〉から作者は自粛に痛烈なアイロニーを発している。せめてハンモックで安らぎたいのである。若さを象徴するハンモックが疲れに対する憧憬の小道具なのである。


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環境と俳句

    子供のための環境学習

 2015年頃まで第二の仕事として続けてきたISO品質、環境審査員を高齢のこともあって引退した。そのあともっと楽しく環境問題に取り組んで行きたいと思い、三重県北勢地区にある「環境学習サークルみえ」に入会した。このサークルは主に小学生を対象に遊びを通じて環境問題を学んで貰おうというものである。その母体は三重県環境学習情報センター主催の環境をテーマとした環境実態、課題を受講したメンバーの卒業生を中心としている。また活動の場としては、小学校への環境出前授業、市のこども活動支援センター、県や各種団体主催の環境イベントへの参加活動を行っている。具体的なメニューとしては、

①遊びを取り入れた省エネルギー教室

②各種環境イベントに協賛した自転車発電の体験

③牛乳パック利用による望遠鏡工作

④手作りの風力発電機工作

⑤手回し発電体験による電力消費の知識習得

など数種類に亘っている。①にはも含めた授業としている。②の自転車発電には発電証明書を発行して子供達などへのインセンティブとしている。

 また私がもっぱら担当している⑤の手回し発電について説明すると、モーターを手で回して起こす簡易発電機により白熱電球、蛍光灯、LED電球の三つの電球を灯す体験から、この時の発電に必要な力の入れ具合の違いを体感的に考えて貰い、最終的にどの電球に省エネ効率があるかを知るまでを体験して貰う。その過程を子供達との対話から自ずと省エネ知識を養って貰う。このような遊びの中から子供達の環境を考える素地になればと思っている。

 またサークルでは毎月の例会で最近の環境問題の現状を討論したり、各自テーマを持ち寄って発表したりして互いの知識を高めるようにしている。

 私自身としてはここでの発表なども含めて、地元の文化センターで「日本の四季から考える環境問題」として5回ほど講演している。テーマは、地球温暖化、生物多様性、異常気象、プラスチックごみ、光害であったが、いずれも俳句と環境問題をリンクさせて発表した。

 他に三重県温暖化防止推進員として三重県と契約して環境活動を行っており、ここへは私の環境活動結果を随時報告している。

 このようにして環境活動を数年間続けてきたが、あと何年、子供達と学んでゆけるか見通せないが、少しでも楽しみながら環境問題の啓蒙に貢献していきたい。

  マスクして子らと折紙原爆忌     隆生

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  現代俳句評(「伊吹嶺」11月号)

土になり石に刻まれ敗戦忌       伊藤 政美

(『俳句』九月号)

 〈土になり〉と〈石に刻まれ〉は先の戦争に倒れた人を指していることは間違いない。〈土になり〉とはこの世に生を受けた人間はいつか自然界に戻ることであり、〈石に刻まれ〉のように墓の名前が残るだけである。この二点だけで先の戦争に従事した人を物語っていると言えよう。さらにここに従軍だけでなく、戦時に生きていたすべての日本人を指していても構わない。「終戦忌」でなく、「敗戦忌」と詠まざるを得ない作者の矜恃であろう。

 

眩しきは白紫陽花と枕飯        山崎 祐子

  (『俳句』九月号)

 母上を亡くされたときの一連の句。通夜の席であろうか。詠まれている「紫陽花」「枕飯」はともに白一色である。母の思い出はこの「白」の眩しさにつながり、これが母を象徴したすべてである。万感の思いをこの二つで言い表した。

 

御来迎かの世の吾に手を翳す      広渡 敬雄

 (『俳句四季』九月号)

 前書に「槍ヶ岳・ブロッケン現象」とある。ブロッケン現象は不思議と自分の影だけは見えるが、すぐ隣の人は見えない。まさにこの世は自分と映っている影だけの世界である。この究極の世界において映っている影はかの世にいる自分と認識し、手を翳したのである。影が自分を呼んでいるような不思議な現実感として迫ってくる。

 

遠隔会議画面顔顔顔朧         相子 智恵

  (「澤」八月号)

 実は掲句は最新句ではない。八月号の「令和二年の澤の俳句」の特集号において同人自選句として相子氏は掲句を挙げられた。二〇二〇年は新型コロナ一色であったと言ってよく、作者が経験した遠隔会議の印象そのものである。俳句をすべて漢字で表記したことと「画面顔顔顔」と遠隔会議を文字による可視化させたものから硬質な印象を与える巧みな表現である。なお最後の「朧」はいろいろな解釈があるだろうが、画面の不確かな仮想空間の不安感であろう。コロナ時代の遠隔会議を象徴した句である。

 

風に身を伏せて移れる蓬摘み      宮田 正和

          (「山繭」八月号)

 この八月号が五〇〇号記念となっている。記念企画の令和の一句に宮田氏は掲句を挙げられた。宮田氏には〈雪よりも風の百日伊賀盆地〉の句碑があるように、伊賀市は峠より強い風が吹きつけることで有名だ。掲句は、早春に蓬摘みに出かけたが、いつもの強風を避けながら、移動するのが習いである。「風」を詠むことにより、伊賀の風土をよく捉えた句となった。

 

ふるさとの山けぶりそむ走り梅雨    山本比呂也

 (「松籟」八月号)

 山本氏は「松籟」六十周年記念に合わせて、句集『生きたしや』を上梓された。その中の一句に、

  生まれつき田舎暮らしよあめんぼう  山本比呂也

があり、幸田町に生まれ、今もここに居を構えている山本氏にとって「生まれつき田舎」なのである。「あめんぼう」を自分の分身としているのが山本氏らしい

 そして掲句もふるさとの良さを実感として詠んでいる。「走り梅雨」によって煙っているのも、こよなく愛すべきふるさとなのである。

 

水中花にも庭の風当ててやり      柴田多鶴子

          (「鳰の子」八月号)

 この号が「鳰の子」十周年記念号である。「鳰の子」のあゆみを見ると、その充実ぶりがうかがえる。

この水中花は風が入る居間あたりに置かれているのであろうか。「庭の風」を当てることは、言わば水中花が植物本来の生を持っている愛すべきものなのだ。水中花に多くの花と同じ眼差しを注いでいるのが作者の優しさである。

       

石段は新樹の中へ続きをり       小川望光子

          (「鳥」八月・0号)

 「星雲」主宰の鳥井保和氏の逝去に伴い、小川氏が「鳥」代表としてスタートすることになった。本号はそのカウントダウン0号である。掲句は新樹の明るさを見たまま詠んでおり、掲句が0号に発表されたことと重ね合わせると「鳥」の前途を見ているようである。「新樹」には光溢れた未来のイメージがある。また石段を登るように未来に遭遇するであろう時代の荒波を乗り越えていく気概が見える。

 

行き交える鉄路のひびき麦熟るる    荻野増寿郎

          (「三河」八月号)

 この度「三河」主宰が荻野増寿郎氏に交代された。掲句は紫麦で有名な藤川宿で詠んだものである。紫麦は町興しの一環として江戸時代の紫麦を復活させたもので、鉄道沿線を紫一色に染める。紫麦は普通の小麦より茎がやや細く、紫麦の揺れやすさを「鉄路のひびき」に呼応させた忠実な写生句である。


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  現代俳句評(「伊吹嶺」10月号)

炎天へ迫り上がりたる電波塔      井上 康明

(『俳句』八月号)

 電波塔と言えば最近は携帯電話の鉄塔が目につくが、掲句は以前からある長距離通信用の電波塔であろう。その構造は携帯電話用とは違い、鉄骨による骨組みは頑丈でいかにも重厚長大である。次に何故このような題材を取り上げたかを考えると、背景に昨今の異常な猛暑があるのだろう。猛暑に対し、たくましい電波塔だからこそ、炎天に立ち向かうように迫り上がる力強さが見える。

 

朱夏の地球汚せるサルを人といふ    大野 鵠士

  (『俳句』八月号)

 掲句は地球の環境汚染を憂いている。〈朱夏の地球〉とあるから、「赤」のイメージが強い夏の地球に通じる。それは温暖化であり、異常気象であろう。そのような環境汚染を引き起こす人類を生物分類学的な「サル」になぞらえて地球汚染を引き起こしている人類に警告を発している。

 

春雨に濡れしのみなる手を洗ふ     名村早智子

 (『俳句四季』八月号)

 雨の中を外出から帰ってきのである。掲句では〈濡れしのみ〉の現実から〈手を洗ふ〉と詠んだことに注目したい。穏やかな春雨の中を歩いてきたため、身体もあまり濡れていないのであろう。ただ作者は雨の中の外出と自宅の境界を跨ぐ一つのけじめとして手を洗ったのである。

 ところで昨今の新型コロナウイルス蔓延のため、帰宅時に手を洗うことが必須となっている。そんな鬱々とした世の中においても洗うのは、せめて春雨のような情緒のある環境がふさわしいと思っていることも推察される。

 

クリップも錆びたる書類夕薄暑     中坪 達哉

  (「辛夷」七月号)

 こういう経験はよくある。どんな書類でもよいが、例えば何かの報告書を作成したとき、とりあえず書類を作成し、保存資料としてクリップで仮止めにしておく。一方、正規の書類は提出したが、元の書類はそのままにしてあったため、いつの間にかクリップが錆びてしまったことに気づいた。「も」とあるから、書類本体も日に褪せているのであろう。ただ「夕薄暑」の季語を据えることにより穏やかで安らぎの見える句となった。

 

遠霞近きものより昏れはじむ     白岩 敏秀

          (「白魚火」七月号)

 遠景と近景の取合せの妙が見える句である。「遠霞」とあるから、霞がかかっているものの、まだ遠景がよく見える状況であろう。例えば霞の中でも遠くまで見える山などの景色が想定され、そこに視点を置いていたが、いつの間にかあたり一面が昏れてきたのである。その気づきが〈近きものより〉なのである。遠景よりも近景の方が早く昏れるという一寸した驚きが見える。

 

城に棲む猫に鬱あり花散らす      柴田 鏡子

 (「笹」七月号)

 〈城に棲む〉というから、掲句は野良猫であろうか。しかし「鬱」が出てくると、この猫は俄然哲学的な様相を帯びてくる。作者は花を散らしている「猫」が人間のような「鬱」状態にあると、認識したのである。猫を描写するにあたって「棲む」「鬱あり」「散らす」と三つの動詞で写生したが、もちろん一番の眼目は「鬱あり」である。

 

断層を越えて残花の丘に立つ      今津 大天

          (「つちくれ」七月号)

 作者が住んでいる大垣市界隈と言えば、根尾谷断層のことを詠んだのであろう。この断層は濃尾地震の際に発生したもので、最大6mに達する大規模な断層である。断層の上はまさに〈丘に立つ〉がぴったりである。この丘に立てば、「残花」が見える情景が晴れやかな印象である。ただ「断層」を配したことにより春の終わりを告げる寂しさも漂っている句である。

       

瑠璃の色濃し霧ごめの鳥兜       下里美恵子

          (『俳句四季』八月号)

 「四季吟詠」選者による「季語を詠む」より。「鳥兜」はその名の特徴から一目で分かり、鮮やかな紫紺である。ここは作者が住んでいるところから近い伊吹山であろうか。「霧ごめ」と言うから、山頂付近に霧が漂っている中、一瞬の風により「鳥兜」が姿を現したのである。その一瞬の色は期待に違わず濃い瑠璃色である。その色彩が印象的で、あくまで写生に忠実にまとめた。

 

火蛾舞ふや車座で読む羅生門      荒川 英之

          (『俳壇』八月号)

 掲句は「火蛾」「車座」という背景と作者が高校教師であることを考えれば、夜の授業の生徒達の輪読会が浮かび上がる。車座になっている生徒達を照らしている照明に吸い寄せられるように火蛾が舞っている。そして教材が『羅生門』であることを念頭に置けば、異様なくらい火蛾が数多く群がっている緊張感が迫ってくる。


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   現代俳句評(「伊吹嶺」9月号)

春風に森の膨らみきつてをり      星野 高士

(『俳句』七月号)

 春が来たことを実感するのは何であろうか。例えば森などの自然では、それは諸々の芽吹きであろうし、動物の目覚めなどであろう。掲句では森の膨らみの大元は「春風」がうながしていると認識している。春風こそが諸々の芽吹き、目覚めの引き金なのである。「春風」が持つイメージの暖かさや優しさが膨らみをうながしているのである。

 

水鉄砲いくども父が甦る        守屋 明俊

  (『俳句』七月号)

 父子が遊んでいるほほえましさが伝わってくる。「水鉄砲」と言えばまだ子が小さいことから、現役の父がたまの休日に一緒に遊んでいるのであろう。子の水鉄砲に父が的になっているのである。掲句では〈いくども~甦る〉が眼目であり、このフレーズに何度も父が撃たれ、また立ち上がって遊ぶ小道具である「水鉄砲」が父子の絆となっている。

 

座して見て立上がり見て夏の航     足立 歩久

 (『俳壇』七月号)

 タイトルから隠岐へ渡る連絡船で、「夏の航」を楽しんでいる様子がうかがえる。この「座して」「立上がり」「見て」の三動作から、対比的に〈ただ見る起き伏し枯野の起き伏し 山口誓子〉の三動作を思い出した。こちらは満州を走っている車窓から見ている起き伏しで、暗いイメージであるが、掲句は航海の最中、座ったり立ち上がったりして落ち着かない。ただ見えるのは海だけであるが、この三動作を詠んだ〈座して見て立ち上り見て〉のリフレインが心浮き立つものを醸し出している。

 

刃物研ぎ立夏の水をひからしぬ     井上 弘美

  (『俳句四季』七月号)

 女性の刃物研ぎと言えば台所の包丁であろうか。丁度立夏の日に包丁を研いでいる。包丁研ぎは誰しも水を垂らして行う。その作業の一環で水を光らせたのである。さらにこの水の光は「立夏の水」だからこそ意義があって、そこから詩が生まれたのである。

 

涼しさや分銅しまふ穴の列       津川絵理子

          (『俳句四季』七月号)

 分銅と言えば、筆者は計量分析を行うときの小道具のイメージが強く、計量中は常に細心の注意を払って分銅を扱う。掲句は身辺の出来事を詠んだのか、それとも学生時代の理科実験で分銅を扱った回想であろうか。一連の作業の最後に分銅を元に収めるときの「穴の列」に涼しさを感じたところに若さが見える。意表を突いた涼しさであるが、そこには若き日のノスタルジーも感じている。

 

郭公の声の幾重や山幾重        東福寺碧水

 (『俳句四季』七月号)

 当月号の発表のタイトルから松代の吟行句である。郭公の声は結構遠くまで響く。その方角は分かっても声の在り処までは分からない。その声は山々が重なっているところから、それぞれの声が呼応して重なって聞こえてくるのである。「幾重」のリフレインから長野県の奥深さが見えてくるし、郭公の遠くまで響く声の特質につながっている。

 

大旗を顎もてたたむ夕永し       能村 研三

           (「沖」六月号)

 こういう経験はよくある。例えば何かイベントの時、会場にシンボルとなる大会旗などを掲げる。掲句はそのイベントが終わって旗を畳むにあたって、あまりの大きさに手だけでなく顎も動員して畳んだのである。この作業から旗の大きさが分かるし、これが終了時に必要な動作なのである。そして「夕永し」の感慨のうち、イベントが穏やかに終わる。中七の〈顎もてたたむ〉の写生力に感心した。

 

遠山は眠り前山は微笑む        武藤 紀子

          (「圓座」六月号)

 掲句は「山眠る」「山笑ふ」の二つの季語を使っており、その意図を知る必要がある。その鍵は「遠山」と「前山」の使い分けである。遠い山はまだ冠雪しているだろうし、前の山は既に芽吹きなどにより緑がふくらみ始めている。この冬から春への端境期を詠むのに、絶妙な季語の使い方である。こうして春は本格的にやって来る。

 

電気柵など巡らされかたばなは     辻 恵美子

          (「栴檀」六月号)

 「かたばな」は片栗の花で一連の句から吟行に出かて、その群生を見たのであろう。しかしそこに悲しみが伴っている。近年、里山の崩壊により人家や田畑にまで猿、猪、鹿など獣害が顕著である。やむを得ず電気柵で防護しなければならない。掲句は「かたばな」まで電気柵に張り巡らされているのを見て、驚くとともにあの可憐な「かたばな」には似合わないと嘆いているのである。下五の思いの強い助詞の「は」にこれらの悲しみの感情とともにこのような生物を絶滅に追いやろうとしている人間の活動にも警告を発している。



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  現代俳句評(「伊吹嶺」8月号)

ヒト争ひ極地の氷溶けつづく      矢島 渚男

(『俳句』六月号)

 地球温暖化に対する警告の句である。いま南極、北極の氷はともに溶け続けている。南極の棚氷の崩落、北極の氷の減少による異常気象など様々な環境悪化に直面している。

 掲句はその温暖化の影響に直面して、あえて「ヒト」と生物学的分類表記により、争いを止めない人類の愚かさを警告している。そして筆者は環境問題に俳人ももっと声を上げるべきだと思っている。

 

春の野へ手指消毒して入りぬ      照井  翠

  (『俳句』六月号)

 痛烈な文明批判である。「春の野」へ出かけることは俳人や自然を愛する者にとって安らぎの場へ出かけることである。しかし今や「春の野」に代表される安全な場所へも「手指消毒」して出かけるコロナ時代に突入してしまった。どこでも「手指消毒」して出かけるのは新型コロナの比喩的な批判である。ただここには諧謔と皮肉も混在しているところに若干の救いがある。

 

点滴は命のしづく春ともし       栗田やすし

 (『俳壇』六月号)

 作者は入院、手術、退院を経験された。掲載10句は入院中の日々を淡々と語っている。手術後の点滴は栄養補給のためであるが、春の夕暮れに点滴を見つめていると、その一滴一滴を「命のしづく」と認識したところに、作者が回復途上にあることを物語っている。このようにして退院の日を確信しているのである。

 

種袋振つて朝顔寝覚めさせ       白石 淵

 (『俳壇』六月号)

 掲句、朝顔の種を蒔くにあたって、作者はまず朝顔に話しかけているのだろう。朝顔を「寝覚め」させるためにはそれなりの起こし方がある訳で、「種袋」を振って呼びかけているのである。美しい花を咲かすためにも愛情を込めた寝覚めの対話が必要なのである。

 

青蜥蜴石を冷たくしてゐたり      小島  健

  (『俳句四季』六月号)

 一連の句のコメントで、作者は自然詠重視の立場から「自然と感覚の融合など、多様な自然詠をなしたい」と述べている。蜥蜴は体温が外部温度に合わせて変わっていく変温動物である。ところが掲句は逆に蜥蜴が石を冷たくさせていると思ったのである。それは感覚的なものであるが、このような発想は蜥蜴が青光りしている肌の艶から冷血的な色彩を帯びて、不気味さを感じたからであろう。こうして自然と感覚の融合が成功した句となった。

 

五月の夜灯もて陸地のかたどられ    冨田 拓也

          (『俳句四季』六月号)

 この句には俯瞰的な視線が見える。作者は海岸沿いにある街を見下ろす丘に立っている。そこであたかも地図を見ているように初夏の海岸線がくっきりと見えたのである。それが〈陸地のかたどられ〉である。さらにこの視線を宇宙ステーションからの視線までに飛躍させると、日本列島が一層顕著に見えると発想を広げることが出来る。

 

かげろふに透くるはやがて通る道    奥名 春江

 (『俳句四季』六月号)

 不思議な感覚に襲われる句である。作者は陽炎の立っている野原を歩いているのだろうか。その陽炎の先まで通りすぎようと、その道を不思議な思いで見つめている。

とここまで鑑賞すると〈やがて通る道〉に他の解釈が浮かんできた。それは作者のこれからの行く末のことと解釈することが妥当に見えた。即ち〈かげろふに透くる〉は作者にとって陽炎にしか見えない不思議な行く末なのである。その道を通ることが自分の人生の終点でも見たような感じなのである。哀しいが、現実に近い未来である。

 

妻癒えよ振れば音する桜貝       蟇目 良雨

          (「春耕」五月号) 
 この5月号で蟇目氏が新主宰となられた。
 蟇目氏の奥様はまだ闘病生活を続けられているのだろうか。氏の介護生活は相当長きに亘っている。
 桜貝は繊細で壊れやすい。掲句は拾い集めた桜貝を瓶詰めにしているのだろうか。その桜貝は夫婦共通の思い出が詰まっているに違いない。桜貝の音を聞かせるのが妻に対する介護の一つである。〈妻癒えよ〉のが切ない。

リハビリ室におのくん人形秋うらら   杉山三枝子

          (「冬林檎」五月号)

 この5月号が創刊二号である。掲句の「おのくん人形」は東日本大震災
を契機に東松島市で、猿をモチーフにした仮設住宅で創作されたものという。作者はリハビリに通っている部屋でこのおのくん人形を見かけたのである。震災後の10年間を慰めるモチーフからほのぼのとした人形が浮かぶ。「秋うらら」の季語を配して、震災後を生きるための安らぎの見える句となった。


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環境と俳句(「伊吹嶺」7月号)

   SDGsと俳句

 最近、新聞等のマスコミでSDGsという言葉をよく聞く。「持続可能な開発目標」と言い、国連発足から70年目の2015年に「未来あるべき姿」として定められた。具体的には17の目標に分けられている。これらは多岐に亘っているが、どれも世界全体にとって重要な課題ばかりで、2030年を達成期限としている。

例えば最初に挙げられている貧困、飢餓問題は、

  短夜の飢ゑそのまゝに寝てしまふ   沢木欣一②

と詠まれたように、飢えは終戦直後の日本にとって切実な問題であった。しかし今でも世界は貧困、食糧危機に陥っている国は多く、特に昨年からの新型コロナウイルスにより国単位の格差が大きくなり、深刻な問題となっている。

 とりわけ環境問題においては多くの目標を掲げている。安全な水、クリーンなエネルギー、気候変動対策、海の豊かさ⑭、生物の多様性などである。

  ハリヨ棲む水に影濃き石蕗の花   栗田やすし

 靴履きてリビング歩く溽暑かな   朝妻  力⑬

  海を断つコンクリートに寒鴉    栗田やすし⑭

  螢飛ぶ闇の底なる千枚田      栗田やすし⑮

などこれらの句はSDGsに繋がっている。ということはこれは産業界、業務分野だけでなく、私たち日常生活においても密接に関わりを持っている。その目標達成には、意識を持った行動が必要となる。

例えばプラスチックごみの削減は生物多様性の維持、気候変動対策、海の安全に寄与することが出来る。また外来生物対策は絶滅危機に瀕している生物の保護につながり、この貴重な生物が私たちの生活に潤いを与えている。

 環境問題は日本としてもこれまで取り組んできたが、さらにSDGsのグローバルな目標として一段の取り組みが必要となる。日本としても2050年までの脱炭素社会に舵を切った以上、その中間年である2030年までがSDGsの達成年であることに思いやれば、これまでのようにのんびりとした考えでは地球はますます危機に瀕する。

 そして究極的には何と言っても、平和への希求⑯が最も重要な課題で、まだまだ世界はテロにまみれている。

  松過ぎの運河にテロの紙面浮く  栗田やすし

 これまで紹介してきた掲句などはほんの一握りのつぶやきかもしれないが、いずれも日本全体の意志として前面に出すべき課題である。SDGsはまだ端緒についたばかりであるが、2030年まであと9年の余裕しかないことを念頭に俳人としても意識を持って行動することが大事ではなかろうか。

 各項目や俳句の下段にある数字はSDGsの目標カテゴリー

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  現代俳句評(7月号)

 

吹き出しのかたち軽やか春の雲     西村 和子

(『俳壇』五月号)

 雲は夏の入道雲、秋の鰯雲、冬の雪雲など四季それぞれに特徴的な姿を見せる。

これらの雲に対し、「春の雲」は掲句のような「ぽっかり」という明るいイメージが違和感なく想定される。言わばひとりぼっちの雲である。そのひとりぼっちを会話の「吹き出し」と感じたのである。その一つ一つが加わり、互いに春の雲が会話しているようである。「軽やか」からその会話は楽しげなものに違いない。

 

夢の色夢のあはさや桜貝        長島衣伊子

  (『俳壇』五月号)

 桜貝は色が清楚でピンク色の赤子の爪のようであり、こわれ易さも持ち合わせている。

 掲句はそんなイメージに相応しく桜貝を「夢」に通じるものとして扱っている。さらに「夢の色」とか「夢のあはさ」のように色に着目している。それは淡い色の儚さに通じた夢であろうか。この夢の実体は読者の想像に任せるしかないのが結論である。

 

残雪の裾に咲きつぎ福寿草       竹村 翠苑

 (『俳句』五月号)

 歳時記では「福寿草」は新年に分類されており、春に開花する自生のものとは一線を画している。もともとは鑑賞用に栽培されたもので、文字どおり目出度さを感じさせることが由来である。これが新年である本意である。

 ただ掲句は「残雪の裾」とわざわざ季節感を出して、山野の「福寿草」を詠んだ。この花は早春、登山路に残雪まじりに黄金色の花を咲かす。〈咲きつぎ〉には一面に福寿草がなだれるように咲いているのが、鉢植えとは違った美しさである。あえて春の福寿草を詠んだ挑戦句である。

 

竹落葉己が根元を臥所とす       加藤 耕子

 (『俳句四季』五月号)

 前後の句からこの「竹落葉」は京都・嵯峨野の竹林である。竹は初夏になると、新しい葉と入れ替わって、古い葉を落とす。夏における枯れ色も一つの情趣をかもし出す。この竹の根元を自身の臥所としたところに竹落葉の詩を感じたのである。〈己が根元〉と詠むことにより竹落葉の安らぎも見える。

 

コロナ後の約束いくつ花菜風      高橋 道子

 (『俳句四季』五月号)

 今年も菜の花が咲く季節がやって来た。コロナ禍はいつ収束するか見えないが、収束後の希望が次々と沸いて来る。またあの地を吟行したいとか、思い出の地へ旅行もしてみたいと友人との約束は幾つも増えていく。そんな期待感を「花菜風」の明るい季節感により代弁している。ただこれらの約束が反故とならないことを祈るばかりである。

 

春の昼硯の海の底びかり        小野 寿子

  (「薫風」四月号)

 硯を海に見立てて詠むのはよくある。〈初日さす硯の海に波もなし 正岡子規〉などは代表例であろう。その見立てからスタートする場合、作者の力量が見せどころとなる。その観点から〈底びかり〉に使い終わった硯には膠などの墨独特な艶があるのを発見した作者の感性が光っている。その艶に「春の昼」らしい駘蕩感も伝わってくる。

 

塗りたての畦の羊羹光かな       渡辺 純枝

          (「濃美」四月号)

 この句も見立ての句である。畦塗は田水を張る前の大事な作業である。精緻に塗り上げた畦を見ると、その艶めいた完成度にある種の美しさを感じる。掲句はそれを羊羹の光と見立てたのである。小豆に黒ごまなどで練り上げたような濃密な色であろう。畦にそんな深みのある土の色を発見したのである。

 

小惑星の砂の暗色鳥雲に        花谷  清

 (「藍」四月号)

 昨年末に「はやぶさ2」が小惑星リユウグウの砂や小石を運んで帰還したときは、コロナ禍で内向きに沈んでいる日本中が沸いた。掲句はその持ち帰ったものを〈砂の暗色〉と極めて即物的に詠んだ。地球の起源に迫れるかもしれない砂を暗色と詠んだところが抑制的である。しかし季語の「鳥雲に」によりさらに未来へ羽ばたくはやぶさを讃えた明るい句となった。「暗色」と「鳥雲に」の対比が科学者らしい視線である。

 

末黒野の黒一色に非ざりし       齋藤 朗笛

          (「白桃」四月号)
 掲句の〈非ざりし〉の断定が心地よい。早春の野焼きのあとが一面黒くなっていることから来る「末黒野」は、ここから生き物のいとなみが繰り返されるであろう息吹を予感させる。よく見るとそれは黒一色ではない。地中にひそんでいる芽吹きからの生命の色が見える。〈非ざりし〉に諸々の命を込めたかったのである。

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  現代俳句評(6月号)

  薄氷の水に浮きゐる端見えず      寺島ただし
                         (『俳句』四月号)

 初春になって、溶け始める薄氷は様々な状態を見せる。〈薄氷の吹かれて端の重なれる 深見けん二〉はまだはっきりと端の見える薄氷で、端の美しさを詠んでいる。それに対して掲句は溶け始めて浮いている薄氷で、その動きから〈端見えず〉を発見した茫洋たる様相である。薄氷には端の見えなくなる段階になっても、その美しさは変わりないと詠んでいる。

 

  防潮堤聳ゆ冬海断ち切つて       飯野 幸雄
                         (『俳句四季』四月号)

 「みちのく忌」と題した16句。筆者は震災後、防潮堤を建設中の石巻市を訪れたことがある。そのとき防潮堤の完成後の高さを聞いたとき、改めて津波の脅威を実感した。

 作者が見た防潮堤はまさに〈聳ゆ〉の言葉が実感であろう。これまで海が見えていたことは、出漁の目安や季節感を実感してきたと言うことである。しかし海が見えなくなることは海の生活が出来なくなることを意味する。〈断ち切つて〉の強い結句には津波に対する怒りが見える。

 

  被曝歴ここに十年種浸す        佐藤 安憲
                          (『俳句四季』四月号)

 今年は東日本大震災、福島原発事故の十年目の節目に当たる。作者は「種浸す」に代表されるような農業を続けてこられた方である。述べているのはただ〈ここに十年〉と控え目な言い方だが、この言葉にはこれまでの言いしれぬ苦労、そして今後も止むことのない苦労がせつせつと迫ってくる。「被曝歴」が悲しい現実の言葉である。

 

  菜の花や人影揺るる嬥歌の地      戸恒 東人
                              (『俳壇』四月号)

 「嬥歌の地」と言えば、さしずめ万葉時代の歌垣として有名な山の辺の海柘榴市あたりが思い当たる。掲句では菜の花の明るさから古代の「嬥歌の地」に思いを馳せている。句意としては人影を発見しただけだが、「嬥歌の地」が主題となれば、俄然臨場感が出てきて、その人影を、嬥歌を交わした万葉人の面影と認識したのではなかろうか。万葉的メルヘンのある句となった。

 

  浅春の本から外すグラシン紙      茅根 知子
                              (『俳壇』四月号)

 グラシン紙は亜硫酸パルプから作られた半透明の薄紙で、ブックカバーとして使われてきた。掲句は句集などかなり古い本であろうか。久しぶりに取り出してグラシン紙のカバーを見て、改めてその古さ、肌触りを実感したのである。「浅春」の言葉からまだ本格的な春に至らない不安定な季節に、破れやすいグラシン紙を登場させてノスタルジーに通じる感触を発見したのである。

 

  麦畑を探す麦踏みしてみたく      茨木 和生
                               (「運河」三月号)

 「麦踏」は昭和中頃までは随所に見られたのであろう。麦踏はもともと厳寒期の麦の芽が霜により浮き上がってしまうことを防ぐために行うものであり、踏むことにより根を強くする。ところが近年地球温暖化により麦踏を必要とする地域は激減している。この事情を踏まえてもなお作者は「麦踏」をしたくなったのである。しかしもうその時代は過ぎてしまったのである。表現上は麦踏の願望だけだが、ここには温暖化に対する悲しみも見える。

 

こなからに一合足せる春の宵      朝妻  力
                     (「雲の峰」三月号)

 掲句は「春の宵」とあるから、桜の時期の酒席であろうか。「こなから」とはいわゆる二合半のことで、作者はさらに一合足して飲むと言い、こんな夜にこれほど飲めることに幸せを感じている。「春の宵」の穏やかな季語からこのように詠んだのであろう。ただ今もなおコロナ禍が猛威をふるっている中で、少人数での飲み会でしか許されないのは作者にとって残念なことだろう。

 

水滴の織部の緑初硯          浅井 陽子
                      (「鳳」一・二月号)

 「水滴」はいわゆる書道において硯に水を垂らす水差しのことである。書初の「水滴」に織部焼を使うのは改まった場にふさわしい。そして織部焼の緑は深く渋みのある色調で心安まるものがある。そんな「水滴」で垂らした水からは満足のいく作品が出来上がったことであろう。

 

  冬うらら院内三百六十歩        村上喜代子
                               (「いには」三月号)

 作者は病院に入院されたようであるが、掲句には明るさが見える。退院も間近になったので、盛んに体力を養っているのだろう。ただウォーキングには制限があり、「院内」に限られている。「三百六十歩」とは水前寺清子の「三百六十歩のマーチ」の世界である。まさに「三歩進んで二歩さがる」から退院に近づく。この句は「冬うらら」「三百六十歩」から明るく元気な入院患者となった。

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  現代俳句評(5月号)

  煮凝を崩す思ひ出消すやうに      徳田千鶴子

(「馬醉木」二月号)

 掲句の「思ひ出」がポイントとなるが、一般的には過去の出来事、喜怒哀楽などであろう。ここでは「煮凝」がキーワードとなる。これは箸休めなどとも言われ、酒の肴としても好まれる。そうすると必然的に祖父、父あるいは亡き夫などと想定が広がる。煮凝は亡き人とともに生きてきた思い出であろうか。それを消すように崩しているのは、一種の覚悟的な決意が見えるが、ただ消そうとしているのはほんのひと刻であって、亡き人々の思い出は消えるはずのないことを作者は知っているのである。

 

  玄室のこゑ玄冬の地底より       石  寒太

 (『俳句』三月号)

 掲句からは古墳など玄室を出入りするときの感触が伝わってくる。作者はいざ玄室に入れば、底冷えのする緊張感から声なき声が聞えて来たのである。その声は地底から沸くようである。聞こえるはずのない声を感じた手法として「玄室」「玄冬」の重ね言葉を使って、その重い響きから句柄の重厚さを発揮させたのである。

 

寒紅を引きただならぬ世に向かふ    柴田多鶴子

  (『俳壇』三月号)

 女性が紅を引いて出かける時は自分をある種の非日常性に置くことだろうか。さらに「寒紅」であれば、もっと引き締めた気持ちが必要であろう。次に〈ただならぬ世〉が気になるが、災害の多い日本では常に〈ただならぬ世〉かもしれないが、ここはやはりコロナ禍にまみれた街に出かけることであり、そのためにはある種の覚悟がいる。その覚悟は寒紅を引かなければ出てこないのである。

 

ものの芽の丈より長き根のありぬ    土肥あき子

          (『俳壇』三月号)

 早春の芽吹きにはひとしお生命のいとなみを感じる。「ものの芽」は木の芽、草の芽などいろいろあるが、ここは丈の低い草の芽であろう。野草などの地下茎は思わぬ方向まで伸びているのを経験する。作者はその目に見えない根に思いを馳せて、表面的な芽より地下茎の長さに本来の草の生命があると感じている。「丈より長き」にその生命の強さを想像させている。

 

短日や襁褓に父の尿重く        相子 智恵

         (『俳句四季』三月号)

「俳句と短歌の10作競詠」の中から。掲句の前書きに「父入院、コロナ禍にて病院は面会謝絶。これが父に会った最後」とあり、癌で父上を亡くされている。

 〈尿重く〉とは実際の尿の重さだけでなく、表現自体も実に重い。面会謝絶の中で結果的に父とのつながりというか、父に触れることが出来たのはずっしりとした尿を通してしかなかったのである。まさに壮絶な場面での重さである。競詠相手の歌人佐藤モニカ氏が相子氏の代表作の一つとなると断言しているのに、全面的な共感を得た。

 

わが止まりても落葉踏む音残る     古田 紀一

(『俳句四季』三月号)

 一読してここにはあるある感を感じた。公園などでの落葉道の散歩は思わぬ大きな音を立てる。落葉を踏む一歩一歩が、一つ一つの音になって響いてくる。これがある種のリズムを持って自分について来るのである。さらに掲句は歩を止めた瞬間でも落葉を踏む音がなお続いているのを心音で捉えたのである。歩を止めてもなお続いている足音は落葉の生命とみているのだろう。

 

  高々と星の輪唱冬銀河         上田日差子

(「ランブル」二月号)

 冬はひときわ空が澄んでいることから銀河は冬の方がくっきりと見える。この句で、〈星の輪唱〉と捉えたことに発想の豊かさを感じる。銀河を構成しているそれぞれの星のまたたきから音を感じたのである。即ちまたたきの集合体が「輪唱」であると捉えたのである。銀河から音を感じたのは作者の独特な感性であろう。

 ところで今、日本では人口の70%が銀河を見ることが出来ない。それは地上から宇宙へ発する無駄な光のせいである。言わば公害と言うべき「光(ひかり)害」である。銀河は山奥でしか見ることが出来ないのが現状である。この無駄な光が無駄なエネルギーとなっている。掲句のような銀河を見ることはもう不可能なのであろうか。地味であるが光害対策が急がれる由縁である。

 

  神島乗せ海の輝く時雨かな       坂口 緑志

(「年輪」二月号)

 同じ三重県人にとって小さいながらも形の美しい神島に親しさを感じる。坂口氏にとっても常日頃神島を眺めておられるのだろう。時雨が降っているものの、このときは遠くにある神島を臨むことが出来る天候なのだろう。見ている神島は銀色に輝く海に浮かんでいる様子を「乗せ」と、海の擬人化で詠んだことは神島を愛でると言うよりも時雨の中に輝いている海を主人公としたのである。

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  現代俳句評(4月号)

   自転車のサドルの余熱秋の蝶     依田 善朗
                        (「磁石」一月号)

 「未来図」二〇二〇年五月号を見ると、「未来図」は終刊とし、二〇二一年より依田善朗氏を主宰として新たにスタートするとある。その矢先に鍵和田氏が逝去された。この一月号が「磁石」創刊号である。今後の躍進が期待される。
 掲句は残暑の焦燥感と「秋の蝶」の危うさとの取合せの句である。秋とは言え、残暑の時期は確実に暑さが居座っている。その象徴として〈サドルの余熱〉に耐え難い焦燥感を詠んだ。そして「秋の蝶」は春のような軽やかなものでなく、気力の衰えを感じる蝶である。この二物が暑さの中の現実感からにじみ出た取合せとなった。ここには理屈では考えられない不思議なバランスが見える。

 

   凍蝶の翅きしませて低く飛び    海老澤愛之助
                          (『俳壇』二月号)

 前句と正反対の「凍蝶」の句を抜いてみた。「凍蝶」の季語からは実に硬質な響きが伝わってくる。今にも落ちそうに、蝶がぎしぎしと軋ませて飛んでいるのである。聞こえるはずのない幻聴から「凍蝶」の本質を見ようとしたのである。一方、松瀬青々の〈日盛りに蝶の触れ合ふ音すなり〉には暑いくらいに日差したっぷりの真昼に蝶の幻聴を詠んだ句であるが、暑さと寒さの両極端には幻聴という相通じるものを持っているようだ。

 

   飴色の瘤となりたる鵙の贄      中村 雅樹
                     (『俳句四季』二月号)

 「鵙の贄」は鵙が捕らえた昆虫や蛙などを木の枝に刺して餌として保存するものであるが、よく刺したまま忘れることが多い。掲句はその忘れた餌の変化に非情の目で見ている。作者は当初、捕られた鵙の贄がそのままの形で残っている状態から、ついには「飴色」に変質し、現状も留めない一塊の「瘤」のようなものになるまでを観察している。そこには生態系の厳しい現実と刺し忘れるというユーモラスな二面性を見たことが詩となった。

 

大津波の砕きし鏡素風過ぐ      柏原 眠雨
              (「きたごち」一月号)

 今年は震災十年目を迎えるが、まだまだ完全復旧にはほど遠い。前書に「山元町中浜小学校」とある。宮城県南端の山元町はほとんど起伏のない海岸地域で海岸から3.6kmの奥まで津波が襲ったという。掲句は震災被害のうち「砕きし鏡」を代表として取り上げ、山元町の悲惨さを詠んでいる。本来は小学校の鏡に何でもない風が寄せていたはずが、今はその鏡がなく、ただ作者は穏やかな「素風」だけを実感している。この素風に津波の悲惨な思い出を重ね合わせているのである。

 

二面石の二面ひとしく秋の声     宮谷 昌代

           (「天塚」一月号)

二面石は明日香村橘寺にある。善面、悪面の二面を持った石像物である。掲句ではこの二面の違いを詠むのではなく、善悪平等に取り上げ、石から話しかけられた心情を詠んでいる。この「秋の声」は具体的な声でなく、心に捉えた秋の気配であり、まさしく二面石から届いた声を心情で捉えたのである。それは逆に作者からも話しかけたいと、二面石を愛しく感じたのである。それは〈二面ひとしく〉から分かり、これが詩情の源である。

 

   あやかしも踊れよ月の石舞台     大島 雄作
                          (「青垣」一月号)

 毎年明日香村の石舞台で観月会が行われる。昨年は行われたのであろうか。ただ掲句は観月会でなくても月に照らし出された石舞台と見ても構わない。「あやかし」とは度肝を抜く登場である。意味は「海の妖怪」とあり、アマビエのような疫病退治の妖怪などが連想出来る。この「あやかし」を石舞台の月と重ね合わせて、コロナ禍を詠むとともに作者の祈りも込めたのであろう。

 

 綿虫の割り込んでくる遊びかな    鳥居真理子
                          (「門」一月号)

 不思議な綿虫の存在を感じたような句である。綿虫はよく初冬に漂い人間にも近づいてくる。掲句は〈割り込んでくる〉が詠みたいことの眼目であろうか。この景として作者達が集まって団欒か吟行でもしているのだろうか。綿虫はそんな人間の集団に吸い寄せられたのである。それを〈割り込んでくる〉と親近感を持って、綿虫の遊び心を読み取っている。人なつっこい擬人化である。

 

   世は疫病(えやみ)日は敗荷の奥に在り    北島 大果
                        (『俳句』二月号)

 この評をかいている現在はコロナ禍の第三波の真っ只中にいる。今のところ収束の見通しは遠い。

掲句は前後の句から晩秋の不忍池であろう。ここも今は「疫病」の真っ只中にあり、一面の「敗荷」からまだまだ収束は遠いと実感しているが、はるか彼方に日が差している。それは収束の光明の日差しを見たかもしれないが、まだ上五の〈世は疫病〉が重くのしかかっている。


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  現代俳句評(3月号)

  誰が病む彼が逝きしと柿熟るる     今瀬 剛一
                          (「対岸」十二月号)

 今瀬氏は第十一句集『甚六』を上梓された。全編に特筆されるものとして追悼句の多さがある。それだけ人脈も多く、また互いに親密に接してこられたからであろう。句集のあとがきには「この五年間、とりわけ親しい知人、友人を多く亡くしたことが悲しく、寂しい。」とある。句集にはそんな心情に応えるかのような次の句に惹かれた。

  幾人を送れば終はる青嵐        今瀬 剛一

 この句の〈送れば終はる〉に一般的な見送りと見ることも出来るが、亡くなった人の見送りと解釈した。今瀬氏にとって見送る人が尽きない現実に対し、〈送れば終はる〉と反語的な表現で、見送ることが終わってほしいとの願望を入れた心情を吐露している。「青嵐」の夏の明るさに満ちた季語が反語的心情を補強している。

 そして掲句も哀切に満ちた心情で詠んでいる。季語の柿のように実りの多い晩秋であるものの〈誰が〉〈彼が〉と会話を対句的に詠んだことから、二人にとって極めて親しい知人が亡くなられたことが分かる。

 

   大津波生れし方より初日影       高野ムツオ
                        (『俳句』一月号)

 今年は東日本大震災十年目を迎える。コロナ禍で騒がしい日本にあっても日本人にとって忘れてはならない十年目である。東北の初日の出は海から上がる。ただそれは大津波が押し寄せた海からの初日の出なのである。そこに作者として忘れてはならない矜持が見える。コロナ禍の中にあっても一年の初めに思うことはまず震災のことなのである。

 

  初時雨水輪消ゆると重ぬると      古賀 雪江
                      (『俳句四季』一月号)

 よく観察された句である。ここは池であろうか、時雨が降り始める頃は見えるものすべて枯れ色に染まっている。枯れ色の池に出来る水輪は紛れもなく変化している。〈消ゆると〉〈重ぬると〉の重ね言葉であたかも水輪が生きているような視線でその生態を詠んでいる。冬が進んでいく鈍色の池がクローズアップされて見えてくる。

 

指先に少し熱あり曼珠沙華       伊藤 政美
                   (「菜の花」十二月号)

 曼珠沙華は強い原色の色合いを持つとともに吸い込まれるような赤が俳人として多彩な捉え方をするような魔力がある。掲句は〈指先に少し熱〉を読み解く必要がありそうだ。これだけの情報だけでは解きようがないので、あとは読者の自在さに任せて貰うしかない。ここは「指先」に思い切った発想を広げて見ると、曼珠沙華に触れたらあたかも曼珠沙華自身が持っている熱が作者に伝わったと感じたのである。曼珠沙華の一触即発の魂を見ているようだ。

 

  一枚づつ棚田鳴りゆく落し水      田島 和生
                            (「雉」十二月号)

 作者なじみの能登の棚田であろうか。棚田をマクロ的に捉えるか、ミクロ的に捉えるかが考えさせられる句である。棚田の一枚一枚を微細に観察した結果、一枚ずつにある畦に着目した。稲の実りの時期を控えた頃の落し水は一枚の田としてはそんなに目立つものではないが、一枚ずつの棚田から音を立てて鳴る落し水が集合体として流れた結果が奔流となっているのである。この句はミクロ的な観察句であるが、それをズームアウトさせると棚田全体の落し水が見え、棚田全体が鳴っている様子も見える。

 

断片として枯蔓が金網に        加藤かな文
                      (「家」十二月号)

蔓あるものは皆枯れ、その蔓をどのように捉えるかで、作者の視線が見える。

細見綾子に〈藪からし枯れてゆく時みやびやか〉があるが、この句はある視線から見ると「藪からし」にある美を見つけたものである。

一方、掲句は「枯蔓」を極めて即物的に詠んでいる。「枯蔓」に対し「断片」「金網」という無機質なものを登場させている。「藪からし」と同様に「枯蔓」の終の生態の一面を持っていることを発見した句である。金網にへばりついた枯蔓が最後は切れ切れとなっている生態を断片として捉えた非情さも内蔵している。また加藤氏は時々切れのない詠法を使われるが、これが「枯蔓」の不安定さを表現させるのに効果的である。

 

  鵜塚まで色なき風に誘はれ       遠藤 三鈴
                               (『俳壇』一月号)

 長良川鵜飼が終了した次の日曜日に毎年亡くなった鵜を供養する儀式が行われる。その場所が鵜塚である。

 掲句は同時発表の一連の句から長良川を散策していることが分かる。と言うことは作者自身が鵜供養に訪れていたかもしれない。ただ〈誘はれ〉と詠んだことは、鵜塚へ秋風に誘われた心情を強く言いたかったのであろう。コメント欄に「一期一会を大切に俳句と素直な心で向き合っていきたい。」とあるように素直な気持で向きあうには〈色なき風〉が最もふさわしい。

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  現代俳句評(2月号)


   病む地球憂ひて潜む龍淵に       有馬 朗人
                        (『俳句年鑑』2021年版)

 有馬氏はこの十二月に九十歳で逝去された。最晩年であっても精力的に作品を発表されてきた。本来は物理学者で、東大総長、文部大臣などを歴任されてきた。

 掲句、「龍淵に潜む」は中国からの典拠の季語で、澄んだ水に潜むのは龍がふさわしい。

 今地球は病んでいる。これは地球温暖化による異常気象や相次ぐ大規模地震かもしれないが、今年に限って言えば新型コロナウイルスに病んでいると言ってもよい。その地球を作者は龍に成り代わって憂いているのである。静謐な印象の季語から人々の悲しみを代弁している。

 

盆の月今年も帰郷かなはざる      大串  章
                                  (「百鳥」十一月号)

 故郷を遠く離れて住んでいる人は多い。作者もその一人で盆の頃になると、望郷の念にかられる。それも毎年のことで慣れてしまったかもしれないが、今年は特別な年であった。新型コロナウイルスのため、日本中が移動制限を受ける中での感慨である。盆の頃の月を眺めるにつけ、〈今年も〉の「も」に作者の深い思いが託されている。

 

   咎人のやうに憚り帰省の子       千田 一路
                                  (「風港」十一月号)

 本号が「風港」二百号記念号となっている。千田氏が「風」僚誌として創刊されて十七年目に入っている。

 掲句を読むとつい「自粛警察」という嫌な言葉を連想する。身内の子であろうか、久しぶりに夏休みに帰省した子を〈咎人のやうに〉と詠まざるを得ない悲しい句である。「咎人」が死語となることを願ってやまない今年である。

 

クリスマス一夜の餐の患者食      細谷 喨々
聖樹据ゑて森のにほひの小児病棟      〃

         (『俳句四季』十二月号)

 作者は現役の小児がんの専門医である。本号の「俳句と短歌の10作競詠」の中で、前句は聖路加国際病院勤務時代のもの。院内にチャペルがあり、キリスト教行事も行われている。クリスマスの夜、入院している子供には行事に参加出来なくても特別な食事が出る。しかしあくまで患者食なのである。ただ〈一夜の餐〉を登場させることにより、患者食は神とともに行う晩餐であり、祈りにも似た治癒を願った晩餐である。

 後句は現在の句で、静けさに満ちた小児病棟である。聖樹を据えたらたちまち森の匂いに満ちた聖樹となった。そんな病棟で作者は今も治療に立ち向かっている。

 

   雪へ雪傷みし大地包むべく       角谷 昌子
                              (『俳壇』十二月号)

 この句の〈傷みし大地〉をどう解釈するのがポイントである。雪は地上のあらゆるものを包み隠してくれる。作者はその包み隠しているものに思いを馳せている。それは作者しか分からないものである。あとは読者の思いに託すしかない。温暖化による大規模台風や異常気象を想定することも出来るが、筆者なら二〇一八年の北海道胆振東部地震で至るところに地肌をあらわにして崩落した山を思い出す。その傷を舐めるのが北海道の雪である。〈雪に雪〉のように幾層も覆い隠す雪によって悲しみを隠すのである。

 

船を降りたる白息のまだ揺れて     山本 一歩

           (『俳壇』十二月号)

掲句から見える景は比較的小型の連絡船であろうか。作者は結構揺れる連絡船から下りてもめまいにも似た揺れている感覚に気づいている。その揺れの持続を〈白息のまだ揺れて〉と「白息」に代弁させている。揺れるはずのない「白息」まで揺れている感覚に置き換えると、逆に揺れを楽しんでいるユーモアも見える。

 

  虫の音や眼閉づればアラベスク     大野 鵠士
                           (「獅子吼」十一月号)

 「アラベスク」は「アラビア風の」という意味であり、イスラム模様などが考えられる。しかし筆者はドビュッシーのピアノ曲「アラベスク一番」を連想した。庭で虫でも鳴いているのだろう。眼を閉じて耳を預けると虫の音が転移してドビュッシーの曲が流れてきたのである。「虫の音」からドビュッシーを確信した。

 

   月明の水くぐらせて筆洗ふ       河原地英武
                          (『俳句四季』十二月号)

 書道にいそしんでいる者にとって最も大事に扱うものとして筆や墨があるが、実は墨を最も馴染み易くさせる水を使うことも目に見えないが、書道にとって大事である。

 掲句は、作品を仕上げたあとの安らぎに満ちた句である。最後に筆をよく洗う行為までが作品の完成に必要な一つのプロセスである。筆を洗う行為から作品の出来も見えてくる。秋の澄んだ水を使うことに加えて、月明かりの中で洗う水はこの上ない清浄で静謐な雰囲気に浸った水である。〈水くぐらせて〉の繊細な写生から作品は満足のいくものであっただろう。

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  現代俳句評(1月号)



烏瓜花を解きて闇生まる        能村 研三

(「沖」十月号)

 本号が創刊五十周年記念号となっている。三百六十頁に及ぶ大冊は壮観である。特に「沖の源流」を読むと、同人が培ってきた伝統の重みは頁数以上であることが分かる。

 掲句、烏瓜の花はレースで編んだような繊細さを持っている。作者は解かれたレース模様の合間に闇が生まれたと認識した。花が繊細であればあるほど、闇が深いのである。

 

   蛍の火点さんために消えにけり     石井いさお

 (「煌星」十月号)

 本号が「煌星」二百号記念号となっている。

 掲句は蛍の生き様を端的に捉えている。点滅することは蛍が生きている証しである。そして消えているときこそ生命を点す序章だと述べている。〈点さんために〉に蛍の意思を代弁している。〈螢火の明滅滅の深かりき 綾子〉の句も「滅」の時こそ蛍の存在感があると詠んだものであるが、両句とも消えている闇に蛍の生命を見ている。

 

   これも秋草狐の孫の名なりける     名和未知男

           (『俳句』十一月号)

 「狐の孫」は小さい草花で、れっきとした学名である。花の由来は確かでないが、花穂が狐の尾に見えることから付けられているという。掲句は「狐の孫」そのものを紹介している。この愛らしい花を「狐の孫」として詠んだ挨拶句で、読むにつれ、花が親しみを持って近づいて来る。

 

 門火揺れこの世の影の息づけり     布川 直幸

           (『俳句』十一月号)

 毎年、盆となると迎え火、送り火など門火を焚く行事が行われる。掲句では、この世の自分とあの世の亡くなった人の橋渡しするのが門火であると見ている。門火を見ていると、あの世の人が揺らす火によって、この世の自分の影息づいているという。あの世の人が影に生命を吹き込んで励ましているようだ。

 

爽やかやスタッカートに靴鳴らし    吉田 林檎

           (『俳壇』十一月号)

作者は今月号の「若手トップランナー」として紹介されている。本号のコメントの中で「音読した響きに相応しい仮名遣いなど美しさを大切にしている」とある。発表句十句はどれも意表を突いた新鮮な写生に溢れている。

掲句はどこかへ外出するのであろう。「スタッカート」は一音節ごとに切り離して、歯切れよく演奏することで、タンゴのリズムが代表例である。そんな歯切れのよいリズムに合わせて、靴を鳴らしているのは実に小気味よい。「スタッカート」と音読していると、タンゴのリズムで歩いている様子がありありと見える。

 

   街は秋マスク無ければ始まらず     奥名 春江

(『俳壇』十一月号)

 最近、筆者の句や友人の句を見るにつけ、「マスク」を詠み込むことが気になっている。本来は風邪予防の冬の季語であるが、掲句も含めて物として詠んでいる句が多くなっている。しかもその使い方に違和感がない。掲句の秋はコロナ禍の第二波が始まった頃であろうか、街に活気が戻っているが、季節に関わりなくマスクが必要である。即ち「マスク」は物としての存在であり、コロナ禍が「マスク」を季語から物へ変質させたのである。

 

  ウイルスの猖獗の町枇杷熟るる     鈴木 貞雄

                (『俳句四季』十一月号)

 「猖獗」(しょうけつ)とは実に難解な言葉である。「悪い物事がはびこって猛威をふるうこと」とあるように、新型コロナウイルスにぴったりである。そんな猛威をふるっている町に対して〈枇杷熟るる〉の対比が複雑な意味合いを持っている。本来夏の味覚である枇杷が〈猖獗の町〉では別の存在感を醸し出している。猖獗に追いやられている枇杷が今年の味覚を象徴しているようだ。

 

夜の更けて一重となりぬ踊の輪     足立 賢治

(「天衣」十月号)

 盆踊の時間経過のありようを見事に捉えた句である。盆踊は日本人なら誰も郷愁を感じる行事である。今年はコロナ禍ですべての祭が中止されたとのことであるが、掲句は地方の細々と行われた盆踊であろうか。初めは参加者も多く、二重、三重と繰り出して踊っているのが本来の盆踊である。夜が更けて次第に参加者が抜け〈一重となりぬ〉と最後の情景を提示したところに、踊の哀愁も見えるようだ。そんな踊が今年にはふさわしいのであろうか。

 

 稜線を海まで伸ばし山眠る       須藤 剛一

(『俳句界』十一月号)

 掲句から真っ先に鳥海山を連想した。鳥海山は山頂から海岸まで一直線に稜線を伸ばし、出羽富士とも言われている秀麗な日本百名山の一座である。冬期の積雪と稜線の美しさが相まって、掲句の〈山眠る〉に相応しい。雄大な山容が眠っているのである。

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