俳句についての独り言(2020年)

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 新型コロナと俳句 2020.12.1 
 現代俳句評(12月号) 2020.12.1 
 新型コロナウイルスから環境を考える 2020.11.1 
 現代俳句評(11月号) 2020.11.1 
 現代俳句評(10月号) 2020.10.1 
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 現代俳句評(2月号) 2020.2.10 
現代俳句評(1月号) 2020.1.10


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  新型コロナと俳句(12月号)

 世界中、感染で振り回された新型コロナウイルス(以下新型コロナ)の流行は止む気配はなく二〇二〇年が暮れようとしている。この原稿を書いている十月までにおいて、新型コロナを題材に俳句はどのように詠まれたか、そして「伊吹嶺」ではどのような行動がされてきたか、中間的なまとめで振り返ってみたい。

一.俳句総合誌・各結社誌

()新型コロナそのものを題材に詠んでいる句

 新型コロナは緊急事態宣言などで日本中が恐怖に襲われた。外出自粛の中、俳人は早くも新型コロナを題材として詠み始め、俳句総合誌では四月号より掲載され始めた。それは手探りの状態であろうが、俳人として新型コロナを詠むことは歴史の一齣を残そうという俳人の意志であり、態度であろう。まず真っ先に詠まれたのは新型コロナそのものを題材とした句であった。

  冬籠ウイルス籠とはなれり       今瀬 剛一

  慎みの()病の空はよなぐもり      能村 研三

()日常生活の中に新型コロナが想定される句

 次に日常生活を詠むにあたり、新型コロナであると、対比的に想定される句が目立つようになってきた。

  ウイルスの世に丸々と蓬餅       新海あぐり

  和布刈舟クルーズ船を遙かにし     千田 一路

 ()新型コロナを隠喩として詠まれた句

 新型コロナを提示していないが、次第に多様な詠み方が広がり、いわば隠喩的に詠まれる句も多くなってきた。

  梅日和など有り無しの日々過ごし    永方 裕子

  平穏な日の戻り来よ瓜を揉む      佐藤 博美

 特に二句目は俳人として、普通の人間としての切ない願いが込められている。

()季語の変質

 さらに自然を詠んでいる季語が新型コロナにより季語の本質、役割が変質していると思われる句もあった。

  疫病憂し端午の空を見上げては     内海 良太

  人影の消えてらんまんたる桜      小林 愛子

 この二句は新型コロナ下にあっても変わらぬ自然を詠んでいるが、本来は明るいイメージの「端午の空」に憂いの役割を持たせたり、同様に日本人としてハレの気分を持つ「桜」に悲しみを持たせる役割を担ってしまっている。

()各結社の動き

 ある程度第一波が去り、ひと時の落ち着きが見えると、各結社で小規模句会、さらに小規模吟行の記事がみられるようになった。本来俳句は「座の文芸」という位置づけが念頭にあり、小規模ながらも句会、さらに吟行を志向することが複数の結社誌から読み取れることが出来た。現実社会ではテレワーク、リモート授業が取り入れている環境に対し、俳句は座を大事にする文芸であるものの、実際にはネット、通信句会、ZOOM句会などさらにはリモート吟行まで検討せざるを得ない時代の変化が押し寄せている。これが新型コロナのインパクトであろう。

二.「伊吹嶺」の場合

 では「伊吹嶺」では新型コロナでどのような動きをしたのであろうか。最も規模の大きい愛知支部同人句会は典型的な三密状態での句会形式であったため、いち早く句会が中止され、一時通信句会で各同人の希望をかなえてきたが、今後の三密対策を施しつつ行う句会のあり方の模索が検討されているという。

 いち早く新型コロナ下であってもネット利用のため、通常どおりに句会が行えているのが、インターネット部のいぶきネット句会であろう。さらに大きな受け皿を担うことを目的にオンライン句会を新たに発足させている。これはメールによる通信句会だが、メンバーのコメントを多くしているのが新趣向であって、リモートであっても「座の文芸」に近づけようとする意気込みが見える。

 次に関東支部ではもともとネット環境のある会員を対象としてスタートした事情もあり、全員参加によるメール句会、さらには「テレ吟行」と言って、ゆるい兼題のような共通テーマで、各々が近場の吟行を行うなどのユニークな吟行の試みもなされている。

その他の支部でもメデイアの違いはあるものの、大なり小なりの形で通信句会、小規模吟行が行われているのが現状である。それは各々の句会も同様であろう。

 こうして「伊吹嶺」の各グループでそれぞれ積極的に俳句に取り組んでいるが、ウイズコロナの時代はまだまだ困難が続くであろう。

三.今、目指すべきもの

 以上の点を踏まえて栗田顧問が各会員に向かって「この際日常吟に挑戦してはどうか」という提唱をなされて、さらに会員の句域を広げるきっかけを作られている。

   夏に入る自粛つづきの無精髭      栗田やすし

さらに俳句には四季があり、その自然を詠み続けていくことが俳人の願望ではなかろうか。「伊吹嶺」内の各グループではさらにウイズコロナの時代に合った変革を目指していくことを期待したい。ZOOM句会、スマホ句会、分散吟行も一つの解決方法であろう。

 以下「伊吹嶺」主宰、同人の一部の方の新型コロナを詠んだ句を紹介してこの文章を締めくくりたい。

   アマビエの如く水辺に鴉の子      河原地英武

コロナ禍の街のしづけさ燕とぶ     下里美恵子

コロナ禍の街暮れてゆく椎の花     栗田せつ子


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  現代俳句評(12月号)

 香水の一滴二滴籠りゐる        藤本美和子

(『俳壇』十月号)

 籠り居に各地の新茶味くらべ      関森 勝夫

(「蜻蛉」九・十月号)

 ウイズコロナの時代はまだまだ続くようである。どちらもコロナ籠りの句である。

 藤本氏の句、今年は口紅、香水などが売れないそうだ。自宅に居れば、外出用の香水は当然不要と思われるが、〈香水の一滴二滴〉という逆の行動に惹かれた。自宅で香水をつけるべきかどうかの逡巡のあとの決断が見える。女性心理はこういうものだろうかと考えさせられた。

 関森氏の句、作者の住んでいる静岡県では毎年各地の新茶を取り寄せては味の違いを楽しんでいるのだろう。ただコロナ籠りの今年は味の違いがあるかどうかは別にして、今年の新茶は特別な新茶であると認識した結果、本来の新茶を味わえることも願っているのだろう。

 

 煤煙のなき明易の水平線        矢野 景一

(「海棠」秋号)

 掲句はコロナ禍を隠喩で詠んでいる。前書きに「経済活動も自粛」とある。今年、世界中でロックダウンや経済がストップしたとき、温室効果ガスのCO2排出量が激減した。二〇〇六年並みの排出量に戻ったそうである。今年のこの時の大気は実に澄みきっていた。ここに本来の夏の朝を実感したのである。この澄みきった水平線が永続されることを願っている視線も見え、温暖化を促進している人間の活動を憂いているのであろうか。

 

 踊りなき街にひぐらし合奏す      福島せいぎ

           (「なると」九月号)

 本号が創刊45周年記念号となっている。掲句は阿波踊りを詠んでいる。今年、全国各地の祭はことごとく中止となった。静まりかえった街に聞こえるのはひぐらしの鳴き声だけである。本来阿波踊りの喧噪が当たり前なのに、代わって登場したのはひぐらしの「合奏」である。華やかであるべきこの「合奏」にはむなしくて悲しみが籠もっている。

 

 原爆忌大地に傷の跡深し        山崎ひさを

           (「青山」九月号)

 累累と蟬の骸やドーム前        大高 霧海

           (『俳句』十月号)

 毎年、夏が来ると誰しも「原爆忌」は鎮魂の思いから詠まざるを得ないテーマである。

 山崎氏の句、前句に〈あの日あの時の古傷夏の山〉があることから、〈大地に傷〉は現実に見た山の傷である。それは昨今の自然災害による山の崩れかもしれない。その〈大地の傷〉から「原爆忌」の痛ましさに思いを馳せることになる。〈跡深し〉は大地だけでなく、原爆忌による心に刻まれた傷である。傷跡が深いほど作者の鎮魂の思いが深い。

 大高氏の句、平和記念公園を訪れた一連の句の冒頭句である。いずれの句も直情的な思いが強い句である。非情で、即物的な把握の「蟬の骸」から被爆時の苦しんだ人々の化身を見た句である。

 

蛇渡る沼の面に疵残さずに       中川 雅雪

            (「風港」九月号)

蛇はあまり好かれない存在である。作者はもしかしたら蛇が泳ぐときは、鱗で疵をつけながら進むのがふさわしいという発想につながったのだろうか。現実には沼の面に疵は残らないはずだが、異様な「疵」を登場させて、蛇の本質を見ようとしたのである。

 

 ひらかむと蕾の尖る蓮の花       鈴木 厚子

(「雉」九月号)

 蓮の花はその美しさから多く詠まれている。言われてみると、確かに開く直前の蓮の蕾は先端が尖っている。蕾を尖らせているのは蓮自身の意志があるように見たのは「ひらかむ」の効果であり、発見の句である。

 

  本題を切出されたる新茶かな      鶴岡 加苗

                 (「香雨」九月号)

 小澤實氏担当のNHK俳句では毎回「令和の新星」を紹介している。そのゲストの鶴岡加苗氏の〈千人にまぎれぬ吾子よ運動会〉の句に家族を詠んだ若い感性に惹かれた。

 掲句からはストーリー性を感じる。ある会話の中で「ところで」と〈本題を切出されたる〉には不安感あるいは逆に期待感の入り交じった印象を受ける。その時の作者の揺れ動く心理が客観的な行動から見事に詠まれている。「新茶」を登場させたことから、明るい話題であったのだろう。

 

滴りの力抜きたるとき落つる      久野のり子

(『俳壇』十月号)

 滴りが落ちる瞬間をよく観察している句である。本来水滴が落ちるのは水の表面張力が限界を超えたときである。しかし掲句の「滴り」はあたかも自分自身の意志で力を抜いた瞬間に落ちると認識したのである。ここでは表面張力などと難しいことを言わないであくまで滴りが意志を持って落ちたと解釈した方が、俳句的真実がある。


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環境と俳句(11月号)

   新型コロナウイルスから環境を考える


   けふもまた籠もりてをれば百千鳥    河原地英武

  夏に入る自粛つづきの無精髭      栗田やすし

 世界中を恐怖に陥れたと言っても過言でない新型コロナウイルス(以下新型コロナ)の止む気配はない。武漢の野生動物を扱う市場から端を発した動物から人への感染がウイルスへ発展した。

どのような経路で人間の感染に拡大したかはまだよく分かっていないが、一般的に言われていることを紹介すると、人口増、社会の都市化に伴い、自然破壊が進み、野生動物のすむ場所がなくなってしまった。その野生動物が人間社会に近づいてきたためである。いわば新型コロナの蔓延は環境破壊が生みだした産物と言える。

 それは人間が野生動物をブッシュミートとして市場に流通させたからである。今回は野生コウモリが持ってきたコロナウイルスが別の中間宿主のセンザンコウに感染し、これが市場で取引されて、新型コロナとなったという。

 ところで今回の新型コロナでは医療面、経済面で大きな打撃を受けたが、環境面では新型コロナをどのように捉えたらよいのだろうか。     

 今年の春、世界中がロックダウンなどで経済がストップしたとき、世界各地でCO2排出減に伴う環境改善が見られた。世界中から大気汚染がなくなり、各地で驚くほど、遠くまで景色が見えたという。これをデータ的に見ると、イギリスの「Nature Climate Change」の発表論文では、今年一月から四月までのCo2排出量が実に17%減となり、2006年の排出量と同等程度まで急激に減少した。

即ち人類は生命の危機感があればCo2を削減出来ることを学んだが、逆に日本での第二波のように、我慢が必要であるものの長続きしないことも学んだ。

今後ポストコロナに向けて我慢せずに経済を復活させ、日常活動の中でCo2排出増加を抑えることが必要であり、そのためには生活スタイルの改良によって環境改善を行う。即ちグリーンリカバリー対策が必要となる。

私たち俳人としては今後ウイズコロナの中で俳句とつき合うことになるが、作句面においてどう向き合えばよいのだろう。一例として栗田顧問の「これを機に日常吟に挑戦してみてはどうか」の発言が一つの指針となろう。冒頭の主宰、顧問の句がウイズコロナの日常吟であり、大いに参考になる。さらにウイズコロナにおいても私たちは環境と大事にし、自然を大切にすることが基本であり、この自然を詠むことがグリーンリカバリー活動の一つであろう。

  コロナ禍の街のしづけさ燕とぶ     下里美恵子


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  現代俳句評(11月号)

 一面の曼珠沙華にもある暮色      片山由美子

           (『俳句』九月号)

 片山氏は狩行俳句を「季語自体が主題となっている句が多いのは、『天狼』の一元的な把握が根底にあるからだといえる」と述べているが、片山氏は師系を間違いなく継承している。改めて今月発表の特別作品50句のほとんどが季語を主題に詠んでいることから確信した。

 掲句はまさに季語そのものを詠んでいる代表例である。一面に咲いている曼珠沙華の時間は述べていないが、花自身が暮色を内蔵していると把握したのである。燃えるような赤の奥に火の衰えを発見した暮色なのである。季語の本意を知り尽くした片山氏ならではの把握である。

 

ある朝の一枚の空鳥渡る        西嶋あさ子

            (「瀝」秋号)

この秋号に西嶋氏は、コロナ禍に関して「『伊吹嶺』の栗田やすしさんは、日常吟に挑戦することを呼びかけられた。日常吟がすなわちいいものかどうかは別問題として、この柔らかな対応がさらに幅広い作品を産んで『伊吹嶺』が大きくなるであろうと思った。」と熱いエールを送られている。

掲句はその日常吟である。〈一枚の空〉は、鳥が渡る頃の澄みきった空の捉え方の一つである。この把握により渡り鳥は何の支障もなく広々とした空を飛んでいる気ままさを描き出している。

 

シャワー浴ぶ間少女となつてゐし    橋本美代子

(『俳壇』九月号)

 「人生百年時代」の特集の一句。失礼ながら作者の年齢を確認させて頂いたら95歳とあった。というのも掲句は実に若々しい句であるからである。自身がシャワーを浴びている瞬間の全く無垢な少女が見える。コメントに「自由の中にも緊張と俳句を選んだ責任をもって羽搏いて欲しい。」とあるように、自由な発想が、シャワーから少女を登場させた若さの見える句となった。

 

日をかへし太陽電池木の芽吹く     小澤  實

           (「澤」八月号)

 この八月号が「澤」二十周年記念号となっている。本号では「澤四十句を読む」の特集で著名俳人や結社からの鑑賞がすごい。実に充実した二五四頁である。ここに「澤」が積み重ねた歴史と会員の実力が見えるようだ。

 掲句は、最近の世相の動きと変わらぬ自然との取り合わせの妙が見える。今や日本国内どこも太陽光発電のソーラーパネルを見ない場所はない。その「太陽電池」をはね返している日の光は無機質である。一方〈木の芽吹く〉には太陽の恵みを受けた芽吹きの光が見え、ここには穏やかな自然がある。ただ人工と自然の両極端の対比の中に、どちらにも太陽の恵みが平等に降り注いでいることにも注目する必要があろう。

 

  億年の一瞬の間を滴れる        蟇目 良雨

                 (『俳壇』九月号)

 蟇目氏は今年第四句集『九曲』を上梓されたが、本句集の多様性に惹かれた。その中から強いて一句挙げよと言われたなら、父の句を挙げたい。

  煮凝や父に親しむ父の死後       蟇目 良雨

 生前、父親とは十分に接してこなかっただろう。冬の夜に「煮凝」を肴に独酌していると驚くほど父親としぐさが似ていることを発見し、亡くしてから父との距離感が近づいたと実感している句である。これが筆者の体験に驚くほど似ていることに気づき、切ないほどの共感を得た。

 そして掲句に戻って、この句は億年の長さに対して、いま水の滴りを見つめていると、その対比において悠久の時間の流れに神の存在すら感じさせる。そんな神の存在の一瞬に私たちは生きているのである。

 

誰も来ず誰も訪ねず豌豆むく     岩鼻 絹子

五月晴睛読雨読籠りをり       嘉門  壯

(『俳句四季』九月号)

 「円虹」ZOOM句会からの発信である。ZOOMアプリを使ったリモート句会である。投句、選句まではネット機能を使っている手順は私たちの「いぶきネット句会」と同様であるが、合評句会では、私たちがチャットルームを使用しているのに対して、「円虹」のZOOMを使った対面句会はさらに臨場感が増している。

 掲句は二句とも外出自粛における籠り居の句である。ひたすら〈豌豆むく〉ことも〈睛読雨読〉することもこれから長く続くであろうウイズコロナの時代には普通のこととなると認識している。今後に期待される句会である。

 

赤べこのやうに紫陽花頷かす     河原地英武

(『俳句』九月号)

 我が家の書棚にも赤べこが鎮座している。掲句を読んで思わず指でつついてみた。確かに頷いている。掲句は逆に紫陽花から赤べこを連想した。それも色の連想でなく、紫陽花をつついて見たときの感触から赤べこの記憶を呼び起こしたのである。河原地主宰の比喩には発想力の自由奔放さが面白い。今後ともますます比喩の句に目が離せない。


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  現代俳句評(10月号)

 口紅の減らぬ日々なり冷蔵庫      櫂 未知子

   鯖缶をつつくや自粛と呟いて      衣川 次郎

          (『俳句四季』八月号)

 夏に入る自粛つづきの無精髭      栗田やすし

           (『俳句』八月号)

 新型コロナウイルス(以下コロナ禍)は一向に収まる気配はない。先の見通せない現状ではコロナ禍と共存して、日常生活の中で作句して行くのであろうか。そのうち外出自粛における日常生活に着目した。

 櫂氏の句、外出自粛の時世でマスクのせいか、化粧品の口紅の売れ行きが落ちているという。その日常生活の食事は必然的に残り物に目が行く。本来はこんな世の中ではなかった筈だと思いつつも、「冷蔵庫」を登場させた。すると現状をさらりと受け入れた生活が見えてくる。

 衣川氏の句、男らしい自粛生活である。今の時世では「鯖缶」などの出来合いの食事に頼るしかない。そこには自粛のつぶやきに居直っている諧謔が見える。

 栗田先生の句、さらに外出自粛が長びくと、女性の口紅と同様、男性は髭も剃らないことになるのだろう。〈夏に入る〉と活動的な季節に移ってもコロナ禍の蔓延は変わらないとつぶやいている。ここには伝統的な季語の無力さも見えるようだ。

 

疫病(えやみ)憂し端午の空を見上げては     内海 良太
人影の消えてらんまんたる桜         小林 愛子

          (「万象」七月号)

この二句はコロナ禍でも変わらぬ自然を詠んでいるが、そこには嘆きが見える。

内海氏の句、「端午の空」と言えば一年で最も青空がふさわしい季節であろう。本来そんな変わらぬ自然の賛歌を詠みたいところだが、〈見上げては〉〈憂し〉と詠まざるを得ない嘆きの心境に共感するしかない。

小林氏の句、自然界において本来は主役となるべき「桜」が外出自粛で閑散として見向きもされない。たまたま眼前の桜を見て感じた〈らんまんたる〉という桜は最高の措辞であるが、その措辞がむなしい。

ともに「端午の空」「桜」の本来の季語の意味からその役割を変えてしまっているコロナ禍に留意すべきである。

 

   地にあはき影ごと揺るる白牡丹     檜山 哲彦
                  (「りいの」七月号)

 ひらかんとして渾身の牡丹かな     村田まみよ

(「圓」七月号)

 牡丹の一花に幻の百花         村上喜代子

(「いには」七月号)

 牡丹の美しさを言うなら豪華絢爛とも言うのだろうか。そんな牡丹の美しさを深く観察した三句に着目した。

 檜山氏の句、白牡丹の実体は〈地にあはき影〉しか思い浮かばないほどの存在なのだろう。影の揺れが白牡丹そのものの揺れであると把握している。「影」が白牡丹の真髄を捉えている。

 村田氏の句、牡丹の咲ききった姿にも強さはあるのだろうが、〈ひらかんとして渾身〉に開花の瞬間こそが牡丹に力が漲っていることを発見している。蕾から開花しようとする牡丹は咲くことに全力を尽くしているのである。

 村上氏の句、掲句のコメントに「牡丹園には付きものの名札が付いていなかった」とあることに触発されて、詠まれたのであろう。名札がない故に眼前の一花から自由に発想が広がり、作者の心眼には次から次へと牡丹が幻のように咲いたのである。眼前の一花も幻の百花にも名札はない。

 

 目が二つありて目高の子が泳ぐ     菅野 孝夫

           (『俳句』八月号)

 硬質な写生である。どの魚にも目は二つあるが、「目高の子」にこの措辞を与えたのは、クロメダカのような逆三角形の頭には目が大部分を占めるからである。目高から〈目が二つ〉だけを切り取った把握は、絶滅危惧種となった目高のアイデンティティを訴えることにつながっているのではなかろうか。ちなみに林徹に〈炎天や生き物に眼が二つづつ〉があるが、こちらも即物具象による「目が二つ」を強調しており、改めて掲句の〈目が二つ〉に注目した。

 

  駒草を覗き込まんと溶岩(ラバ)に伏す    新谷 壯夫

                 (『俳壇』八月号)

 まさにカメラマンの視線である。「駒草」は地を這うように咲き、観察するには腹這いになるしかない。この可憐な

花は荒涼たる溶岩帯に伏すことでしか覗けないのは、高山植物の女王たる威厳のためかもしれない。〈溶岩に伏す〉がマクロ撮影のカメラマンの姿勢である。

 

 風涼し業平古道遠く来て      下里美恵子

(『俳壇』八月号)

 愛知県知立界隈は在原業平由来の史跡が多い。在原寺あたりは旧鎌倉街道が通っているが、地元では親しみを込めて業平古道と呼んでいるのであろう。下里氏にとっての俳句工房の古道は、いつも迎え入れてくれる心休まるものがある。その心の在り処を〈涼し〉と詠んだ。〈遠く来て〉に業平を偲ぶ賛辞が見える。

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  現代俳句評(9月号)


   混濁の世に煌めける春の星       大串  章

           (「百鳥」六月号)

   蟄居すれば桜隠しといふ変事      佐々木建成

           (『俳壇』七月号)

 新型コロナウイルス(以下コロナ禍)は一時的に収まっているようにも見えるが、完全終息までには遠い道のりが待っている。俳人にとってはコロナ禍を踏まえつつも、不変である自然を詠み継ぐことが責務であるように思える。

 大串氏の句、まさにコロナ禍の世は「混濁の世」である。ここでは永遠にある自然として「春の星」を詠んでいる。混濁、混迷の世であっても、潤んでいるようにも見える煌めく星に永遠の命を求めることが責務なのである。この「春の星」が今の時世にとって心のよりどころである。

 佐々木氏の句、「桜隠し」は「桜が咲く頃に雪が降る」という日本人の機微に触れた美しい季語である。しかし異常気象であることは間違いない。コロナ禍で外出自粛しなくてはならないことも桜隠しも変事の一つである。今は桜隠しの情景を見ることが出来ないが、逆説的に自然を詠み継ぐことが重要であると発言している。

 

   父の骨余花の山へと還しけり      仲  寒蟬

          (「群青」六月号)

「群青」六月号で仲氏はコロナ禍について「こういう時世、俳句には何が出来るだろう。こういう時でも桜は美しく咲き、燕はやって来る。それを詩にして人の心を慰めることも大切なことではないか。」と述べている。

掲句は、作者の父の一周忌の句である。納骨する父の骨は作者の心を慰める「余花の山」がふさわしいと詠み、〈還しけり〉に自然への畏怖が見える自然を詠んでいる。

この時世に自然を詩にすることは大切なことであり、それは大串氏、佐々木氏の心情も同じである。

 

   甲斐信濃知らぬ三河のかたつむり    山本比呂也

(「松籟」六月号)

   存分に美濃を歩きし蝸牛        渡辺 純枝

(「濃美」六月号)

 結社誌を見ていたら、この地方に根ざしたかたつむりの二句に出会った。いずれも作者の分身のかたつむりである。

 山本氏の句、〈かたつむり甲斐も信濃も雨のなか 飯田龍太〉が連想され、龍太に対するオマージュの句である。龍太が活動の場を甲斐信濃としていたように、山本氏は自身を「三河のかたつむり」になぞらえて俳句面における龍太の高みに対する尊敬の眼差しが見え、活動拠点である三河の愛着から自身の気概も見える。

 また渡辺氏の句は、自身のフランチャイズである美濃をこよなく愛している句である。美濃を詠むことは自身の世界を詠むことであり、〈存分に〉のフレーズから満足感にあふれた「蝸牛」である。

 

   潮の青差しくるごとく七変化      星野 恒彦

(『俳句』七月号)

 夏になると、海とか河口の差し潮は太陽光により様々な色に変わる。また「七変化」は咲き始めの白から赤紫、藍色と変わるように、変化豊かな「潮の青」を比喩として「七変化」に重ね合わせている。逆に「潮の青」が主役のようにも見えるほど印象的なこの青は「群青」に違いない。

 

   それぞれの未来図に描く虹の橋     黒澤麻生子

(『俳壇』七月号)

 鍵和田秞子氏は六月十一日に死去された。鍵和田氏への感謝を込めた前書きがついている。「未来図」は黒澤氏の勉強の場であった。その「未来図」の精神を受け継いで、教えを受けた諸々が自身の未来図を設計していくのである。その出来上がった「虹の橋」はきっと未来に向けて輝いていることであろう。師への感謝に満ちた句である。

 

   突かれゐて掌の形のまま紙風船     寺澤佐和子

           (『俳句』七月号)

 寺澤氏も「未来図」の方である。掲句は、発見の句である。紙風船は突いても弾力性がない。その弾力性のなさを〈掌の形のまま〉と掌のあとの映像を提供して、紙風船の本質に迫っている。突いてみて始めて分かる発見である。

 

  沼を越え山くずしゆく夏の霧      森澤  程

                 (『俳句四季』七月号)

 まず夏の霧と本来の霧とどこが違うのだろうかと考えてしまう。その解答が掲句にあるのだろう。〈山くずしゆく〉から一寸荒々しい夏の霧が見えてくる。この句のキーワードは「山」であり、そこから夏の霧へと連想が広がる。そして〈沼を越え〉がその前奏である。

 

  垣越ゆるときに光りて水温む      白岩 敏秀

                 (「白魚火」六月号)

 掲句からは春の水の膨らみを感じる。春の水は膨らむに従い、様々な様相を見せる。特に堰にぶつかって越えるときに水は膨らみ、その瞬間、光を発するのである。その膨らんだ結果が「水温む」につながる。掲句は一句一章の力強さを持っている「水温む」なのである。


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  現代俳句評(8月号)

   生徒ゐてこその学校鳥の恋       平野  貴

           (『俳句』六月号)

 梅日和など有り無しの日々過ごし    永方 裕子

           (『俳壇』六月号)

   花を見ぬ花見月なり籠りをり      藤田 直子

          (『俳句四季』六月号)

 新型コロナウイルス(以下コロナ禍)は緊急事態宣言解除以降、世の中の経済が動き出し、一見収まった感もあるが、いつ第二波が来てもおかしくない。カミュが『ペスト』の最後で「そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来であろうということを」と述べているように本当の終息は見通せない。この歴史的な流行に対し、俳人も自分の立場から次々と詠み継がれていくことであろう。この拙評もコロナ禍に対峙している俳句を見ていきたい。

 掲句の三句はいずれもコロナ禍を隠喩で詠んでいる。

 平野氏の句、今年も「鳥の恋」に代表される自然界のいとなみがくり返されるに対し、休校となった学校に存在意義はなく、〈生徒ゐてこそ〉と強調して生徒の出校が待たれる心情を詠んでいる。

 永方氏の句、「梅日和」という俳人の原点とも言うべき生活に外出自粛を余儀せざるを得ない現状に〈有り無しの日々〉を詠まざるを得ない心情に肯える。

 藤田氏の句、コロナ籠りの日常の嘆きを〈花を見ぬ花見月〉の現状として実感している。花を見ることが出来ない日本は真の日本ではないとのつぶやきである

 以上三氏の句はどれもコロナ禍を暗示して本来俳人が詠むべき生活、自然を渇望している態度がありありと見える。

 

   うつしみやひとこゑ落す春の雁     伊藤 敬子

          (「笹」五月号)

伊藤氏はこの六月に逝去された。一月には「笹」40周年記念号を発行し、同月にその記念俳句大会も行われて、一段落したあとの訃報である。

五月号の八句はすべて病窓吟である。掲句はその巻頭句。いきなり〈うつしみや〉と述べて生きている実感というか生きたいという願望のつぶやきであろう。そこに聞こえた帰雁の声は伊藤氏にはどのように響いたのであろうか。その心情に思いやると切ない。          合掌

 

   春浅し伊賀越えてゆく無線塔      宮田 正和

(「山繭」五月号)

 この五月号が「山繭」40周年記念号となっている。宮田氏が在住の伊賀市は四囲山に囲まれた盆地である。掲句の「無線塔」は電話などの通信手段の無線中継所で、盆地をまたいで伊賀を越えていく。その自由さと盆地の対比から羨望が見えるが、早春の空の明るさも見える。

 

   春日差気を失ひて目覚むれば       茨木 和生

(「運河」五月号)

 茨木氏は外出中に倒れられたのであろう。今はペースメーカーを入れての生活で一安心と述べられている。

 掲句、倒れた瞬間を〈気を失ひて〉と坦々と述べられている。目が覚めたとき、真っ先に気づいたのが「春日差」である。言わば春の穏やかな太陽の存在が氏のとっての手助けとなったのであろう。その感謝を込めてこの五月号の十句すべてが「春日差」で詠んでいる。超多忙の氏にとって今後とも穏やかに活動されることを祈っている。

 

   茅花穂に正造の抱くマタイ伝      加古 宗也

(「若竹」五月号)

 田中正造は足尾銅山鉱毒事件で命をかけて運動し続けてきた。正造は信者ではなかったが、キリスト教会で度々演説したり、聖書の『マタイ伝』を常に携帯していたと聞く。茅花は咲き終えても穂が大きく膨らみ、いつまでも穂となって存在を示すとおり、死去の際も携行していた『マタイ伝』こそ正造の存在意義だと作者は実感している。

 

   ゆらゆらと海のものとも月のものとも  市堀 玉宗

           (『俳句』六月号)

 一読してこの〈ゆらゆら〉の正体は何であるか、探ることに躊躇した。手がかりの〈ゆらゆら〉〈海〉〈月〉のキーワードから「海月」と容易に推察出来る。さらに海面に写った月の光の存在、即ち波と考えることも出来る。この波こそが海のものでもあるし、月のものでもある。とここまで考えて掲句の何とも頼りない破調からこの正体をこれ以上探らないことがこの句の本質であると思った。

 

  しじみ蝶止まりて翅を摺り合はす    坂口 緑志

                  (「年輪」五月号)

 掲句、「しじみ蝶」ほどの小さい蝶を観察するにあたり、まず〈止まりて〉と情景を提示して〈翅を摺り合はす〉と丁寧に描写している。松瀬青々に〈日盛りに蝶の触れ合ふ音すなり〉があるが、青々には双蝶が互いに戯れ合っているのを聞けそうもない聴覚の句として詠んでいるが、坂口氏の句は〈摺り合はす〉から実に繊細な視覚を詠むとともにここには聴覚も感じているようだ。


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  現代俳句評(7月号)

 慎みの()病みの空はよなぐもり     能村 研三
                       (『俳句』五月号)

 冬籠ウイルス籠とはなれり       今瀬 剛一
                       (「対岸」四月号)

 新型コロナウイルス、まだまだ止む気配はないし、一時的に感染者を抑えても第二波の怖れが控えている。

 能村氏の句、外出自粛のつぶやきの句である。それも〈空はよなぐもり〉と見通せない空であり、中国由来の黄砂を詠んだのは穿ち過ぎかもしれないが、実感であろう。

今瀬氏の句もひたすら自粛の句である。「冬籠」という本来は待春の明るさの見える季語であるはずが、「ウイルス籠」のフレーズによってマイナスイメージの季語となってしまった。両句から希望につながる青空はまだ先のようである。

 梅白しウイルス騒ぎ止まぬ中      朝妻  力
   地にコロナウイルス天に初燕      辻 恵美子

                          (『俳壇』五月号)

ウイルスの世に丸々と蓬餅       新海あぐり
                          (『俳句』五月号)

 この三句の〈ウイルス騒ぎ〉〈地にウイルス〉〈ウイルスの世〉とあるようにいずれもウイルス時代に耐えることをやむを得ないと見ているが、〈梅白し〉〈初燕〉〈蓬餅〉などに代表されるようにコロナ禍にあっても本来の四季は何事もなかったように巡ってくる。そんな季節感は日本人にとって原風景とも言うべきもので、願望のこもった詠みぶりに平穏な時代を待つ気持ちが見えて来る。

 これまでに挙げた作者の結社誌の一部からコロナ禍について、巻頭言、編集後記から拾い読みすると「俳句は昔から座の文芸とも言われている。ネット句会なるものもあるが、これであれば人と人が接触せずに座の効果は一部では果たせるかもしれないが何となく味気ない。」(能村氏)、「各支部の句会場も休館の措置が講じられ、紙上句会に変更された旨の連絡が入っている。座の精神に基づく句会が知恵を使い開かれることを望む。」(「対岸」編集後記)、「三月は通信句会とさせて頂きました。作句と選句だけの毎日、俳句は座の文芸だなあとしみじみ思っています。」(朝妻氏)など諸氏とも座の重要性を述べられている。カミュはペストという人間性を蝕む病を「不条理」と位置づけていたが、俳句はこのような不条理を乗り越えて、座の文芸精神を取り戻す日はいつ来るのだろうか。

 

  霜晴や歌に始まる幼稚園        柏原 眠雨
                             (「きたごち」四月号)

 柏原氏は先頃、第五句集『花林檎』を上梓された。この句集にも題名となった〈復旧の鉄路に汽笛花林檎〉など東日本大震災を詠まれた句も多いが、この句集ではキリスト教にちなんだ句に惹かれた。

  朝顔を蒔く主の祈り覚えし子     柏原 眠雨
  表紙とれしこども賛美歌染卵       〃

 いずれも子供を題材に詠まれている。

一句目、〈主の祈り覚えし子〉からまだ幼いことが分かり〈朝顔を蒔く〉からはその子の幼い祈りが伝わってくる。

そして二句目、復活祭に見た一光景として「こども賛美歌」の表紙のほつれと信仰の具象化としての「染卵」の取り合わせからこれも一途な祈りが見えてくる。

 そして掲句に戻ると、歌を唄うことから幼稚園の一日が始まることの日常から幼子が唄っている顔も見えてくる。これが作者の幼子に対する優しい眼差しであろう。

 

白菜の日の力得し味なりし      鈴木 節子
                            (「門」四月号)

   押しかへす力を感ず春の土      木本 隆行
                             (『俳句四季』五月号)

 「門」はこの四月号が四百号記念号になっている。掲句の二句とも自然の力を詠んでいる。

 鈴木氏の句、白菜の味は瑞々しくどんな料理にも似合う。そんな白菜の味は〈日の力〉を得ることに真髄があると詠み、太陽の力こそが万物を育む原点で、その結果、白菜らしい味となった。

 木本氏は「門」同人で「精鋭16句」の中からの一句。この句の眼目も〈力を感ず〉である。春になって万物が膨らむ中、土も膨らむ。この土に力があるのを〈押しかへす〉と把握したことから生き生きとした土を体現させ、「春の土」を擬人化させることがふさわしい把握となった。

 

  出し抜けに雨戸を叩く鰤起し      棚山 波朗
                     (「春耕」四月号)

 「鰤起し」は作者の出身地である北陸地方ならではの季語で豊漁の前触れである。唐突感のある〈出しぬけに〉が秀抜である。「鰤起し」の擬人化が効果的で、雷鳴が雨戸を叩くことによって豊漁の呼びかけの音となった。

 

   抽斗に未来も詰めて春を待つ      天野 小石
                             (『俳句』五月号)

 まさにタイムマシンが入っているドラえもんの抽斗である。抽斗という存在は不思議なもので、何でも入れられそうである。掲句の〈春を待つ〉から明るい希望につながる未来が約束されたような抽斗である。

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  現代俳句評(6月号)

咳すれば彼方此方の目をむ      中原 道夫
                          (『俳句』四月号)

 新型コロナウイルスの猛威は止みそうにもない。この六月号が出る頃には止むことを願っている。

掲句、「疫病禍」二十一句のうちの一句。句意は明確で咳一つにも気を使う昨今である。ここでは「目を雧む」と「集」の本字を使っている意図に着目する必要がありそうだ。〈彼方此方〉からの視線には一種の侮蔑と差別が混じっている。そんな視線を表現するにあたり、本字を使ったのである。その結果「咳」と「雧」が緊張感を持って響き合った。

 ばい菌食ふ獏はゐまいか梅の夜     佐怒賀正美
                                (『俳壇』四月号)

 「獏」は中国の想像上の動物で悪夢を食うと言われている。この「ばい菌」は前後の句から当然新型コロナウイルスで、そのような悪夢を食う獏を登場させたのは、中国由来のウイルス菌退治は獏がふさわしいとの取り合わせである。「梅の夜」という日本的な情緒に対し、中国由来のばい菌退治は想像上の動物に頼るしかないとの認識である。そこにばい菌の容易ならざる一側面が見える。

 

  防護服同士握手や春の暮        堀本 裕樹
                            (『俳句四季』四月号)

 「俳句と短歌の10作競詠」の中の一句。防護服同士が握手とあれば、ともにウイルス治療に従事している同士の光景として読むのが一般的であろう。そこにはひたむきさも見える。しかしこの競詠で歌人の永田淳氏は「ケンタウリ星系から来た宇宙人とコロナウイルスの検疫官が出合った場面と読んでも一向に構わない。」と俳句に対して一種の憧憬を込めて発言している。俳句にはそういう融通無碍な解釈が可能なのであろうか。防護服から本来の趣旨以外にいろいろな発想を秘めた「防護服」である。

 以上三句ほど鑑賞したが、新型コロナウイルスがまだまだ予断を許さない段階であるが、作句態度も今後長期スパンで考えていくことも必要であろう。

 

  地に還るものに降り継ぐ春の雨     浅川  正
                            (「雲の峰」三月号)

 外出の自粛疲れに身をすり減らしている私たちにとって掲句のような「春の雨」に出合うと安らぐ。〈地に還るもの〉から生態系の悠久さを感じた。生態系のヒエラルキーとして生産者から低次、高次消費者などの階層があるが、その食物連鎖から最後に生態系はすべて地に還り、それらがまた新たな生態系を形づくる。「春の雨」はそのような万物に降り継ぎ、大地を形成するものであると鑑賞した。そこには人間も含めた悠久の自然に感謝している姿勢が見える。

 

  群肝のありて流るる雪ばんば      矢野 景一
                     (「海棠」春号)

 群肝は「心」の枕詞である。掲句は、句意としては「雪ばんば」があたかも心を持っているように流れ飛んでいるとも解釈すべきであろう。ただここでは「心」でなく「群肝」を使っていることに留意する必要がある。松瀬青々に〈むらぎもの心牡丹に似たるかな〉があるが、細見綾子はこれを「訳の分からない心というものは牡丹に似ている。」と評している。これを考えれば掲句はどちらかと言うと、雪ばんばの心は訳の分からないような状態で飛んでいると解釈するのであろうか。このように読者に雪ばんばの心に触れてほしいとの思いが「心」ではなくて、「群肝」を使った効果であろう。

   動物園の石の巨木や囀れる       川原 風人
                         (『俳句四季』四月号)

 掲句を読んで筆者は身近な情景として、東山動植物園の入口にある縄文杉のレプリカを連想した。「石の巨木」はまさにそんなレプリカである。石と言えどもあたかも生きていそうな巨木なのである。そんな巨木に鳥がとまることは極めて当たり前だと思っているのである。石であっても動物園だからこそ囀りがふさわしい。その石の巨木は既に生命が宿っている。       

   空色も空気の色も春隣         塩川 雄三
                            (「築港」三月号)

 春の足音は何で感じるのだろうか。早春の季語「ものの芽」のように地上の芽生えから感じる場合もあるが、掲句は春の予兆を空や空気の色から感じている。確かに春になると動き出す万物の芽生えが微妙に空や空気に働きかけ、色づき始める。その色を春の予兆としたのである。「ものの芽」が地上の生命であるに対し、「空色」も「空気の色」も天空の生命の芽生えである。

 

  七草を摘む足らざるを足るとして    壁谷 禮伺
                              (「三河」三月号)

 筆者もよく七草を摘みに出かけることがあるが、散歩の範囲内であれば、七草をすべて摘むことは出来ない。摘める種類だけでよいと思っている。〈足らざるを足るとして〉にはあくせくしないで、新年を迎えるという自然体が見え、それが心の豊かさにつながってくる。



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  現代俳句評(「伊吹嶺」5月号)

   人呑みて光の春となりにけり      照井  翠
                     (『俳句』三月号)

 三月十一日は忘れてはならない日である。作者は二〇一一年釜石市で被災されている。作品16句はすべて九年目の三月を詠んでいる。その掉尾に掲句を据えたことに思いやる必要がありそうだ。毎年やって来る春は春光の季語にふさわしく光に満ち溢れている。眼前にある春の海も明るさそのものである。しかしその明るさの中に人を呑み込んだ海である二面性を持っていることを忘れてはならないと詠んでいる。この句を掉尾に持ってきて、二面性を持った海もまた来年の十年目の三月十一日を迎えるのである。

 別れには川が似合へり蛤塚忌      伊藤 政美
                         (「菜の花」二月号)

 大垣市教育委員会では「蛤塚忌」を季語として認知されるべく毎年「芭蕉蛤塚忌全国俳句大会」を冠大会として開催してきた。その結果、『平成俳句歳時記』(H21年北溟社)に「芭蕉忌」の傍題として採録された。作者はこの俳句大会で選者を務められ、この「蛤塚忌」を詠まれた。掲句は当然〈蛤のふたみに別れ行く秋ぞ 芭蕉〉を踏まえており、芭蕉が舟で大垣を出立した別れから〈川が似合へり〉と詠んだ。「蛤塚忌」を讃えたこれ以上ない挨拶句となった。

 

   青麦の果てに一筋日本海        田島 和生
                         (『俳句』三月号)
    凍蝶のまぶたを閉づるやうに伏し    鈴木 厚子
                          (「雉」二月号)

 「風」の沢木欣一師系を守っている「雉」関係の二句を抜いてみた。

 田島氏の句、師系の地、石川県を訪れたときの句であろうか。早春の明るさをもたらす一面の青麦。その先に見えた日本海の一筋の光、冬の暗い日本海から明るさを感じた句である。青麦が日本海の明るさを後押ししている。

 鈴木氏の句、そもそも蝶にまぶたはあるのだろうか。そんな疑問を抱えつつ、この句は常識を破って「凍蝶」はかくあるべしと詠まれたのではなかろうか。冬の間の動かないで伏している姿はまぶたが閉じているのが最もふさわしいと認識したのである。ここには昆虫学の真実でなく、詩の真実があるようだ。

 

いのちあるものとぢこめてうすごほり  田口 紅子
    薄氷の水を走りて風のいろ         〃
  
                             (『俳壇』三月号)

 早春の氷は光に溢れているようだ。
 一句目、作者は〈うすごほり〉に〈いのち〉を見ている。その閉じこめられている命は氷が溶ければ飛び出すであろう春の命だ。ただ〈うすごほり〉の段階は春の命を閉じこめている序章なのである。

 二句目、溶け始めた「薄氷」の表面を覆う水は風によって自らの意志を持って走った。そのとき薄氷の発する色は風そのものであろうか。そこには早春の光によって引き起こされた〈風のいろ〉がある。

 この二句は春の命と春の色を醸し出す薄氷の光の側面を捉えている。

 

   尽未来われに寒星降るごとく      福島せいぎ
                         (「なると」二月号)

 作者は僧職に就いている。「尽未来」とは仏教用語の「尽未来際」の略で「永遠の未来」を意味している。そうすると掲句は作者自身のつぶやきで、〈寒星降るごとく〉とは永遠に自分自身に厳しさを科している覚悟のことであろうか。非常にストイックな句である。

 

  一途なる龍太の川が枯の中       佐藤 郁良
                          (「群青」二月号)

 山梨吟行合宿の折りの句。一行は笛吹川から蛇笏・龍太の山盧を訪れている。掲句は当然〈一月の川一月の谷の中 龍太〉を踏まえている。枯れの中の川を見て龍太の生き様を〈一途なる〉と認識し、作者が寄り添って詠んだ龍太の俳句と人柄に対する挨拶句である。

 

  絵硝子に人影溶けて春立てり      冨士原志奈
                  (『俳句四季』三月号)

 掲句の「絵硝子」はどこであろうか。筆者のお気に入りと言えば名古屋の旧川上貞奴邸であった二葉館を思う。大広間のステンドグラスが大正ロマンの香りを醸し出している。そのような「絵硝子」を透かした先に人影を見つけた。朧とも幻とも感じるように人影が溶けると感じた。それが絵硝子の効果なのである。そんな雰囲気に佇んでいるのは、立春こそふさわしいと考えたからである。

 

 嶺々に冬の星座の回る音        中坪 達哉
                          (「辛夷」二月号)

 北陸の冬はいつも暗い空が想定されるが、掲句は晴れた夜の嶺々が戴いている冬空である。そんなときの空は見ている瞬間も星座が動いているように感じたのである。さらにあまりの静けさの中ではかえって音を感じるときがある。それが静けさの中で感じた〈回る音〉である。寒さと無音の極みに感じた音である。


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  現代俳句評(「伊吹嶺」4月号)

  まつ先に地震の跡の雪崩かな      若井 新一
                         (『俳句』二月号)

 雪崩は春の訪れをもたらすものの、災害につながる恐ろしさをもっている。掲句、もともと雪に覆われた冬山は、どの山も変わらずに見える。しかし作者の住んでいる新潟県では度々の地震により山の地盤に亀裂が入っていることをよく知っている。そんなところにある雪山では真っ先に雪崩が発生するところは決まっている。〈地震の跡〉が真っ先なのである。それは悲しいが現実的な雪崩である。古来からもあった雪崩にも災害の爪痕によって雪崩を見る目が変わって来ている。

 

  冬はつとめて生卵割る飯の上      星野 昌彦
                               (『俳句』二月号)

 〈冬はつとめて〉は有名な『枕草子』の一段目に出て来る。冒頭の「春は曙」の「曙」は自然の夜明けを意味することであるに比して、「冬はつとめて」の「つとめて」は生活感のある早朝である。そこに作者は卵かけご飯を登場させた。生卵を割る行為によって『枕草子』に現代的な息吹をいれた。「曙」でなく「つとめて」であることを味わいたい。さらに上七の古典の長いフレーズの提示は中七以降の現代への橋渡しをしている。

 

魚は氷に上りて人は畑に出て      山本 一歩
                                (『俳句』二月号)

 「魚は氷に」は立春の三候であることから二月中旬頃である。今年のような暖冬のあとでは実感が違うが、川などの生き物が動き出す頃と言えば、作者は畑打ちの頃と認識している。上八と下八の言わば二行詩とも言うべきリズムで「上りて」に軽い切れを入れて、自然界と人間界の対比を巧みに構成している。

 

  繰り言のやうな会議や十二月      高倉 和子
                                   (『俳句四季』二月号)

 一読していかにもあるあるという実感だ。一般企業で言えば第三・四半期末の十二月は売上高、生産高など年度を見通した実績見込みを元に翌年度の計画を策定する時期である。そんな十二月で、実績が上がらないことの言い訳ばかりが続く会議に出席者はうんざりしている。たった〈繰り言のやうな会議〉の短いフレーズから冒頭の場面が即座に浮かんできた。

 

  海が汚れてゐるぞと叩く鯨の尾    大島 雄作
                             (『俳壇』二月号)

 掲句は極めてメッセージ性の強い句である。鯨を見ることが出来る海と言えば高知県沖でのホエールウォッチングの景であろうか。大海原で見た鯨から作者は自然の豊かさを感じたのではない。水面を打ち付ける鯨の尾の動きから鯨の悲鳴を聞いたのである。それが〈海が汚れてゐるぞ〉の叫びなのである。

かつて豊穣であった海は今、環境リスクに犯されている。温暖化による海水温上昇は異常気象とともに生態系の減少ももたらす。また海洋プラスチック汚染も生態系を脅かせている。このような海洋汚染の懸念を〈海が汚れてゐるぞ〉と鯨に代弁させたのである。

 

  ここからは水音暗き草紅葉       山口 昭男
                                (「秋草」一月号)

 この一月号が「秋草」十周年記念号となっている。作者は十周年にあたって〈秋草のまじり気のなき色に合ふ 昭男〉と十年の感慨を詠んでいる。そして掲句の「草紅葉」が秋草に最もふさわしいものの一つとして詠まれたのであろう。一面真っ赤に染まっている草紅葉を歩いている。〈ここから〉とあるようにここが草紅葉の様相が変化しているところである。その境界点を越えると〈水音暗き〉なのである。それは水音を聴覚でなく視覚として捉えている。それが作者の詩的感覚なのであろう。

 

  眠る山起こさぬように登りたり     吉田ひろし
                       (「自然」一月号)

 昨今の高齢化社会は確実に俳句界にも押し寄せて、結社誌の経営もどんどん厳しくなってきている。この一月号が終刊号となっている。わずか三ヶ月前に三百号記念号を出したにもかかわらずである。吉田氏は「私の気力、体力がなえた」と述べているが、高齢化の波の影響もあろう。

 掲句は、初冬の低山の印象を受けた。一合目から山頂まで常に〈眠る山起こさぬように〉の気持ちを持ち続けて登ることは、山を自分の母郷のように感じているからではないか。そんな低山ならではのやさしい山への挨拶である。

 

  大気抱きかかへ白鳥滑水す       檜山 哲彦
                              (「りいの」一月号)

 白鳥と言えばいつも〈八雲分け大白鳥の行方かな 欣一〉の雄大な景を想像する。一転掲句は繊細な写生の目を持っている。白鳥が降下して、水上を滑る瞬間の動きを〈大気抱きかかへ〉と把握した。それはブレーキを掛けるときの羽根の広げ方から目に見えない「大気」を発見したのである。無駄な表現が一切ない硬質な即物具象である。


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   環境と俳句

        異常気象

今年の冬はこれまでにないくらい暖冬でおかしい。世界遺産白川村のライトアップは合掌家の屋根をはじめ一面の雪が幻想的な夜景を演出するはずが、積雪はゼロで雨の夜のライトアップとなった。また日本各地のスキー場が雪不足でオープンを迎えられない。そして名古屋では今冬、未だに初雪が観測されていない。反面つい二年前は猛烈な寒波で交通機関がマヒしたことは記憶に新しい。

 一方、一昨年の夏は西日本豪雨から始まって真夏は軒並み40℃を超す命に係わる猛暑で日々が続いた。そして昨年は台風15号、19号などが立て続けに日本列島を縦断して、避暑地であるはずの長野県では千曲川決壊、さらに各県でも堤防決壊起こす数十年に一回に匹敵する台風災害があった。

 とここまでの最近の日本の異常気象について述べたが、その原因を考えると、地球温暖化であることは疑いがない。

 温室効果ガス増加による温暖化は世界中の気温を押し上げるが、昨今の日本の台風災害は温暖化による海水温上昇によるものが主流である。海水は地球表面の70%を占めることからもともと気温上昇があっても、海水の慣性力から容易に海水上昇までに繋がらなかった。それがついに海水温上昇に局面が変わり、日本近くでは太平洋沖で台風が発生したかと思えば台風勢力が拡大しながら、いきなり日本に上陸することから台風被害が頻発している。

 ここまでの説明で温暖化が猛暑、暖冬をもたらすことは容易に理解出来るが、それでは一昨年のような大寒波はどう理解したらよいのだろうか。これまでは寒波をもたらすものの一つにラ・ニーニャ現象があることは分かっているが、他に北極振動と言って極北の気圧が高くなる(これを北極振動が負であるという)と日本に寒波をもたらすことも知られてきた。それが温暖化により極北の温度上昇に伴う大量の水蒸気発生による北極振動が極端化されて、日本に大寒波と豪雪をもたらす。ちなみに今冬は極北振動が正となっているため大量の水蒸気が北極に流れ込み、回り回って日本が暖冬となっている。

2015年のCOP21でパリ協定が合意されたが、対策の本格実施が今年の2020年からスタートするはずが、昨年のCOP25でも温室効果ガス削減の具体的目標、実行計画が合意されず、宇宙船地球号が全体として削減対策すべきが、舵を失い、船長もいない現状となってしまっている。

 このまま温暖化対策をしない場合の恐ろしい天気予報が環境相から出されている。それは、このまま温暖化対策を行わないと2100年のある夏の天気予報によれば最高気温が名古屋で44℃、札幌でも41という笑えないジョークがある。これがこのまま温暖化対策を行わない結果の確度の高い予想である。

 このような天気予報は聞きたくないが、現在でも次のような俳句が作られていることに真剣にならざるを得ない。

  千曲川氾濫林檎溺れさせ        中澤 康人
                            (2019年の台風19)

  梅雨出水闇の中より叫び声       今瀬 剛一
                            (2018年西日本豪雨時に各地でも豪雨)

靴履きてリビング歩く溽暑かな     朝妻  力
                           (2018年猛暑の中の大阪北部地震)


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  現代俳句評

台風の打ち落したる葉の青さ      小林 愛子
    野分あと空は高さをとりもどす     原田しずえ

                    (「万象」十二月号)

 昨年も台風15号、19号など大災害が襲ってきた。まず結社誌から台風を詠んだ二句を抜いてみた。いずれも台風本来が持っているべき特質を読み取ることが出来る。

小林氏の句、台風がまだ青々とした木の葉を打ち落としたところに着目している。このような実態はこれまでの台風が持っている本来の特質であり、日本人が慣れ親しんできた生活の一部としての台風を捉えている。

原田氏の句、ここにも野分の季語で日本の歴史に基づいた季節感を遺憾なく発揮している。その野分一過の青空を〈高さをとりもどす〉の措辞から「天高し」の日本古来の秋の本質を感じさせてくれる。

 

ことごとく秋草を消し氾濫す      矢島 渚男
                           (『俳句』一月号)

 一転して掲句は、前後の句から昨年の台風19号による千曲川決壊を詠んでいることが分かる。〈ことごとく〉のフレーズは悲しいことだが、昨今の台風の本質を表すにふさわしい。「秋草」だけでなく、田も家もインフラも消し去ることが含まれている。この〈ことごとく〉の一言で言い終えている。

 作者がコラム欄で述べているように、地球温暖化は今後とも異常気象をもたらすことは間違いない。筆者は温暖化がある種のテッピングポイントを過ぎて雪崩打って、ますます強大な異常気象が襲ってくることに恐れを抱いている。

 草揺れて秋風そこにある如し      武藤 紀子
                         (『俳壇』一月号)

 前句では、温暖化の現実を目の当たりにした台風を鑑賞したが、掲句は、日本の秋を素直に感じさせてくれる句である。〈秋風たなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ 右京大夫賢輔〉などに代表されるように「秋風」は日本古来、幾多の和歌、俳句において日本人の感性に親しみを感じてきた。

 掲句には草のかすかな揺れに「秋風」を発見し、日本人が持っている繊細さを言いとめている。〈そこにある如し〉とは秋風を一つの生き物として把握しており、私達ももっと秋の存在に気づくべきとのつぶやきとして捉えた。

    耳たぶに触れてゆきたる風は秋     松枝真理子
                          (『俳句四季』一月号)

 掲句も感性豊かな秋風を詠んでいる。秋風を耳たぶに感じるということは、ここが鋭敏な感覚を持っており、それなりのやさしい感触を持っているのに違いないからである。下五の「風は秋」と「秋」で止めたことは、そんな繊細な風こそが「秋」そのものであると季節感を強調したのである。

    ひといろにものをうつせし秋の水    山口 昭男
                          (「秋草」十二月号)

 非常にシンプルな構成の句である。水は、海や湖そして川では青く見えるが、手に掬ったり、近くで見る限り透明である。即ち「秋の水」は「水澄む」とも通じる季語のように透き通っていることがこの季語の本性である。

 この句では現実的には樹木など様々な色を写しているのだろう。しかし〈ひといろにうつせし〉とあらゆる物が一つの色に吸収されてしまうと詠んでいる。その色は青かもしれないが透明という色である。これが秋の静謐さを感じさせる色である。

 

  動くものひかりを放ち冬立ちぬ     木暮陶句郎
                          (『俳句』一月号)

 掲句は、冬の繊細さを「ひかり」の中に見つけたものである。〈動くもの〉とは何であるかが関心の的であるが、光を放つものに違いない。一般的には動物が想定されるが、筆者はこの動きに風の存在を感知した。来たるべき本格的な冬が訪れる前の立冬は、あたかも物のように見えた「ひかり」を放った風こそ冬の感覚があるのではないかと思った。

 

  幾万の声挙げてゐる霜柱        柴田佐知子
                 (『俳壇』一月号)

 四季巡詠33句の中の一句。どの句も筆者の琴線に触れた句であるが、掲句に惹かれた。
 霜柱が立っている様子は文字通り無数の柱が己の存在を主張しているようである。掲句はその主張を擬人化させて、声を挙げさせている。白光りしている霜柱の柱に人の化身を見たのであろうか。この句には底冷の中に完成した霜柱の力強さがある

     今年米続けし友のこれまでと      大橋  晄
                        (「雨月」十二月号)

 非常に省略の効いた句であり、ストーリー性を感じさせる。作者は農家の友から新米を購入しているだろうか。毎年心待ちにしている様子がうかがえる。ところが「今年米」に添えられた文に今年限りでやめるとの言葉に、これまでの努力にエールを送っている。ここに高齢化社会と日本の農業の衰退を見るようだ。

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  現代俳句評(「伊吹嶺」2月号)
 

晴天や林檎の赤は紺を秘め       西村 和子
   捥ぎくれし林檎齧れば山青き        〃   

                      (『俳壇』十二月号)

 掲句は林檎に内蔵する微妙な色を捉えている。ここには林檎園四句のうち、この二句が続いて掲載されており、一句一句は独立しているが、爽やかな連想を演出している。
 一句目、林檎は成熟するにつれ、赤色に変わるが、ここには〈紺を秘め〉と言いとめることで林檎が晴天の青に触発されて、林檎に紺が内蔵されたと鑑賞した。
 二句目は一読して林檎に青色を内包していると言っていないが、齧った林檎から山へ視線を向けることにより青色への連想を促している。

この二句を続けたことにより一句目の残像を二句目につなげている仕掛に読者は肯っている。

 
   妻と生き来たる日思ふ後の雛      茨木 和生
                          (「運河」十一月号)

 「後の雛」とは江戸時代に重陽の節句の九月九日にも雛を飾ったことによる。古季語を現代にも息づかせようとする茨木氏ならでは作句態度である。
 掲句は重陽の節句に飾った雛に向きながら雛の面影に亡き妻との日々に思いやっている妻恋の句である。「後の雛」にその思いを深くさせている。

 

鷹渡る思ひ思ひの空つかひ       辻 恵美子
                           (『俳句』十二月号)

 東海地方では伊良湖岬で鷹の渡りが多く見られる。この地方においては、この素材を使い常に新鮮さを保ちつつ詠むことは辻氏にとっての作句の課題であろう。掲句の鷹の渡りを見ている限りは一羽一羽の表情は見えないが、〈思ひ思ひの空を使ひ〉の措辞を発見したことが句の新鮮さを保つ決め手となった。

 

  流れゆく机や牛や秋出水        矢須 恵由
  千曲川氾濫林檎溺れさせ        中澤 康人

                           (『俳句界』十二月号)

 大規模災害、特に水害は日本にとってもはや毎年襲われる宿命なのであろうか。『俳句界』では昨年に引き続き、今年も緊急特集として「堤防決壊」をテーマに各結社の主宰の七名の競詠を企画している。そのうち二句を鑑賞したい。

 一句目、台風19号による茨城県からの報告である。この句の異常さは「机」だけでなく「牛」までも流される被災を詠まざるを得ない現実に、思いが色濃く出ている。「秋出水」という季語は既に江戸時代から見受けられ、一つの季節感として客観視して詠む態度が見られてきたが、温暖化が加速されている現代ではもはや「秋出水」という季語の持つ伝統的な意味合いから「秋洪水」とも言うべき季語に変質する時代の局面に遭遇しているのではないか。

 二句目、「千曲川」と言えば島崎藤村の「千曲川旅情の歌」にあるような郷愁を誘うイメージが強い。しかし今年ほど「千曲川」が悲しみに代表される言葉に変質するとは思わなかった。掲句にある〈林檎溺れさせ〉に長野県産の林檎をも巻き込んだ表現に心悼むものが大きい。「千曲川」自身からは温暖化をこれ以上進めてはならないという警告を発しているのではないか。

 

  聖樹いままことの星をその上に     黛   執
  売れ残る聖樹に星のこぞりたる     黛 まどか

                          (『俳句界』十二月号)

 シリーズとなっている「親子響詠」も18回目を迎えた。
 一句目、聖樹に飾られているだろう星と現実の星を対比させている。〈聖樹いま〉と気負うほどのフレーズは〈まことの星〉を際立たせている。言わばこの句の主役は「聖樹」でなく、「まことの星」である。

 二句目も聖樹に合わせて星を詠んでいる。この売れ残った聖樹にも「星」はまたたいているのだろう。売れ残った星に対して天上の星は聖樹の応援歌としての〈こぞりたる〉である。

 

  芒野に畦のふくらみありにけり     南 うみを
                 (「風土」十一月号)

 石川桂郞、神蔵器を師系とした「風土」はこの十一月号が創刊60周年記念号となっている。
 掲句は「芒野」の変遷の見える句である。廃耕田となって自然に戻った野原を見かける経験がよくある。掲句は、現在は草原となったものの廃耕田となった「畦」の名残に〈ふくらみ〉の変化を発見したものである。この〈ふくらみありにけり〉には時間の変遷を感じさせる「芒野」の存在感だが、一句一章とすることにより際立たせている。

 

攻め上る如く蟻ゆく楡大樹       河原地英武
                        (『俳句四季』十二月号)

 楡はもともと存在感のある大木である。蟻は餌を求めて常に列をなして行動する。掲句はその蟻が楡を垂直に登っている列を〈攻め上る〉と把握したのである。そこには黒い筋をなす列はまさに軍隊蟻そのもので、蟻の黒光りが見えるようだ。「大」と「小」の取り合わせによる硬質な把握の即物具象の句である。


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  現代俳句評(「伊吹嶺」1月号)

  水道管ガス管通す地にも露       宇多喜代子
                        (『俳壇』十一月号)

 宇多氏は今年、文化功労者に叙せられた。宇多氏は日本民俗の探求など積極的で、その一例として『里山歳時記』など田んぼから見た日本の自然、生活から環境を守ることが俳句を守ることであるとの言葉が印象深い。

 掲句、露けきものは様々あるが、目に見えない地下にもあると断じている。一般に地下埋設されているインフラには水道、ガス管の他、電気、通信施設などがあるが、掲句ではとりわけ露けきものとして、連想させる水道管などで代表させた。即ち無機質なものの中にも日本の自然を感じさせるものは地下にもあると主張している。掲句には宇多氏が書かれた『里山歳時記』と同じやさしい視線がある。

 
  髪ほどけよと秋風にささやかれ     片山由美子
                        (「香雨」十月号)

 片山氏は「香雨」の主宰としてスタートした一年目、第六句集『飛英』を上梓された。掲句を鑑賞するに先だって『飛英』から同じ素材を抜いてみた。

病室の明り落として髪洗ふ       片山由美子
    秋風や人の言葉にうらおもて        〃

 一句目にある「髪洗ふ」という行為は女性にとって業のようなものであろうか。入院中であっても最重要行為のものとして位置づけている。
 二句目の「秋風」は人間の内面に入り込む素材であろうか。〈言葉にうらおもて〉には他人には窺い知れない心理を「言葉」として読み取ろうとしている。それを読み取ろうとするツールは「秋風」だと認識している。

 そして掲句に戻ると、擬人化された「秋風」には句集と同様に女性として〈髪ほどけよ〉と言われる当事者にとって、秋風に人間の内面まで見透かされたような気がするのだろうか。〈ささやかれ〉がやさしいながら、心理的描写するにあたっての絶妙な措辞である。

 無言てふ暑さ渦なす爆心地       すずき巴里
                            (『俳句』十一月号)
    闇雲に小蟻走りて原爆忌        田島 和生
                            (「雉」十月号)

 毎年やって来る原爆忌は日本人にとって毎年、しかも永遠に詠まなくてはならないテーマであろう。
 すずき氏の句、今年の夏も暑かったが、その暑さは年々ひどくなっている。作者は爆心地を襲ってくる暑さは音も立てない渦巻のようだと比喩している。〈無言てふ暑さ〉には爆心地を象徴するような暑さがある。

 田島氏の句、毎年、原爆忌を詠むことを責務として考えられているのであろう。原爆忌の当日に見た蟻から人間の犯した性に思いを馳せている。走っている蟻には原爆の犠牲となった人々と重ね合わさって見える。〈闇雲に〉には逃れられない過去の被爆者の無力さが漂っているようだ。

 

  花合歓のしだいに濃くて象潟へ     今瀬 剛一
                     (「対岸」十月号)

 「対岸」十月号が通巻四〇〇号記念となっている。
 掲句は講演を兼ねて秋田、山形へ吟行したうちの巻頭句。この句には切れが入っていないことから、畳み掛けるような高揚感に溢れている。象潟を象徴する合歓の花の色が濃くなっていくことは即ち象潟に近づくことであると認識している。〈しだいに濃くて〉が期待感に満ちた表現となった。

 

  蓮見舟蓮押し倒し押し倒し       山崎ひさを
                    (「青山」十月号)

 花蓮の時期になると、どこも蓮見舟が出るようだ。
 掲句は簡明で気持ちのよい句である。蓮見舟は実際には花蓮を縫って進むのであるが、あたかも花蓮を押し倒して進むことが蓮見舟の役割として見ている。〈押し倒し押し倒し〉のリフレインに舟の軽快さとともに花蓮の色を散らしている彩りに満ちた句である。

 

  牛の顎やませも放射能も沁み      高野ムツオ
                    (『俳壇十一月号)

 東日本大震災、とりわけ原発事故は八年目を過ぎた今も忘れられない災害であり、人的災害である。
 東北は一見農業も酪農も平穏に行われているようだ。しかし牛には「やませ」も「放射能」も同じように染み込んで来る。「やませ」は冷害をもたらす夏の冷たい風で、まだある程度受容出来るものであるが、「放射能」はそうはいかない絶望がある。「やませ」も「放射能」も見えないところに牛だけでなく、人間にも染み込んでいる。この二つの対比で放射能の無慈悲さに怒りが見える。

 

  食べ了へて無口な二人ところてん    木内 マヤ
                    (『俳句四季』十一月号)

 一読して我が家の夫婦を見透かされた印象を持った。静かな午後、暑気払いとして心太を食べたのであろう。向き合っている二人は黙々と心太を啜っている。そして食べ終えてもまだ無口なことだけを述べている。その背景として日常においても無口な二人なのであろう。ここには饒舌である必要はない穏やかな生活が見える。

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