俳句についての独り言(2021年「香雨俳句逍遙」)
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掲句のポイントは「ぐらりと前の山」のオノマトペを使ったことである。いわゆる「風林火山」の「動かざること山の如し」の真逆を捉えた類型的でない把握である。大根を思い切り引いた時の反動に見える視線の動きから眼前の山を動かして、オノマトペをひらめかしたのである。 さみどりの影を重ねて若楓 片山由美子 主宰が執筆の『季語を知る』には数々の季語の含蓄が含まれている。例えば「若葉」と「青葉」の違いなどは主宰の「季語が負っている歴史というものがある」との発言を知る必要がある。掲句の「若楓」と「青楓」は時間差の違いだけに見えるが、江戸時代の『俳諧歳時記栞草』には「若葉の楓」はあるが、「青葉の楓」はない。また虚子編の『季寄せ』には「若楓」はあるが、「青楓」はない。これらを踏まえて掲句で「若楓」を折り込んだ姿勢を知っておく必要があろう。ここでは「さみどりの影を重ねて」に若楓の色のグラデーションを見せて一句を明るい色に仕上げたところに「若楓」の本質を見るようである。「青楓」ではこのような微妙な明るさは出ない。 植田まだ波立つほどの丈ならず 桑島 啓司 一般に「植田」は田植あとの田を差しているが、さらに細分化すれば「早苗田」が田植直後であり、稲が生育するにつれ、「青田」に変わる。掲句はこのような「植田」の丈の長さの微妙な違いに着目している。即ち早苗田はとても波立つほどに丈は長くないし、「青田」になればもう丈がしっかりと伸びて、風に波立つ様子が鮮明である。そして掲句は「早苗田」から「青田」に成長する途中に「波立つほどの丈ならず」の状態があるのを発見したのである。稲の生長の微妙な丈の違いを捉えた句である。 浜へ出る鉄の階段夏はじまる 田中 春生 最近このような海岸をよく見かける。海岸の補強や浸食防止のために堤防を高くした結果、鉄の階段を越えて行くのである。しかし筆者は掲句から悲しい思い出につながる。東日本大震災あとの津波防止のため、到るところで堤防のかさ上げ工事がされて来たのを見かけた。夏の海水浴シーズンが始まっても、かさ上げした堤防を越えて浜辺に行くしかない。「鉄の階段」は悲しい現実である。 言ひかけしことのみこみて心太 田口 紅子 「心太」を食べる動作は、様々な心の動きを覆い隠すことが出来る一つのツールだろうか。まず「言ひかけしこと」に作者の心のとまどいが見える。ここには作者の心理状況が二つ考えられないだろうか。 一つ目は、これから言おうとした内容に躊躇してしまい、とりあえず「心太」を食べて、余計なことを言わなかったのである。それが「のみこみて」の効果である。 二つ目は、逆にこれから大事なことを言う前にまず「心太」を食べて、心を落ち着かせたのである。つまり一旦発言を呑み込んで、それから大事なことを言うのである。ともに「のみこみて」がきっかけの心理動作である。 花菜漬夫婦の淡き日を重ね 斉藤加代子 「花菜漬」は菜の花の蕾を塩漬けにしたもので、ほのかな苦みに春を感じさせるが、主菜とはならない。 掲句は夫婦二人で「花菜漬」で軽く食事しているのだろう。「淡き日を重ね」から長年連れ添った夫婦の感慨を噛みしめているようだ。二人の積み重ねた歴史はほろ苦いが、穏やかな人生を「花菜漬」に象徴させて詠んだ。 春の雲ふたり暮しに鍵わづか 白石美津子 引き続いて夫婦ふたりの来し方に惹かれた。掲句はまさに夫婦の断捨離生活である。「ふたり暮し」ともなれば、諸々の物を次々と整理するのだろう。余計な物を持たない生活を「鍵わづか」で代弁させたのである。「春の雲」からゆったりとしたふたり暮しが見える。 啓蟄や鉢より出づる根のましろ 矢野みはる 「啓蟄」は地虫など動物に春の訪れを実感するが、掲句は「啓蟄」を植物に実感させている。鉢植えはそのままにしておくと、行き所をなくして鉢の底から根がはみ出る。この根の白さに生命を感じたのである。根の白さこそ「啓蟄」に相応しい芽生えである。
先々に花野あらはれ花野ゆく 鷹羽 狩行 名誉主宰にはリフレインや対句表現の句がよく見られる。例えば同じ花野の句で〈昼は日を夜は月を上げ大花野〉は「花野の伴奏者は、昼は太陽、夜は月」と対句表現を自註句集で述べている。 掲句は「花野」をリフレインさせるとともに、それを際立たせるための行動を対句で表現している。即ち花野を巡るにあたって、そのプロセスを「あらはれ」の花野への出会いから「ゆく」と詠み、自身が花野に同化する展開に使っている。二つの動詞が花野を讃える元となった。 くれなゐに濁りの少し蛇苺 片山由美子 蛇苺は蛇が食べるという由来からあまり好まれていない。掲句は「くれなゐ」の実をつぶさに観察し、鮮紅色にかすかな「濁り」があるのを発見した。やや暗い道端の中に自生していることから実の粒の微妙な陰影を「濁り」と認識したのである。ただ「少し」というフレーズに作者は逆に蛇苺にいとおしさを感じている。 蟄居とはかかる思ひか青嵐 杉 良介 掲句の「蟄居」は前後の句から新型コロナウイルスの感染を避けるための行動であろう。ただここでは「自粛」でなく、「蟄居」の表現を使ったことに考える必要がある。「蟄居」と言えば、江戸時代の強制謹慎が想定され、理由があっての自宅謹慎であろう。掲句ではコロナ禍の自粛には強制的な蟄居の意味合いがあると思ったのである。しかも外は強いが明るい南風に満ちているのに何事かという思いを「蟄居」と体験的表現としたのである。 読初や扉の系図まづ辿り 櫨木 優子 よく小説を読むとき、冒頭の登場人物一覧を頼りにすることがある。新年を迎えて、作者は思い切って小説それも歴史小説の大作に挑戦したのだろうか。ただ登場人物が複雑な歴史小説のため「扉の系図」から入る必要がある。意気込みはよいが前途多難な思いである。「まづ辿り」にもどかしさも含めた表現を込めた。 雪の夜やたがひの寡黙貫ける 若井 新一 作者は農業に従事している方で、冬期は作業も少なく、特に雪降る夜は必然的に夫婦二人の生活に籠もることになる。そんな夜はそれぞれの仕事を黙々と続けるのが習いであろう。それが「たがひの寡黙」で、ただそこには会話を交わさなくても意志が通じる雪の夜の一齣である。「貫ける」に静かな二人の愛情が見える。 走り茶の封切る誰か来て欲しき 大野 崇文 新茶、走り茶は主に香りのよさから誰にも好まれる。その年に初めて封を切るとき、期待感から一人で汲むには惜しい気がする。「誰か来て欲しき」は思わず口に突いて出た願望である。この直截的な話し言葉が封を切るときのわくわく感となり、走り茶への賛辞となっている。 階下より団欒のこゑ玉子酒 寒河江桑弓 玉子酒はよく風邪を引いたときなど、身体を温め、体力の回復を図るとき飲む。作者は風邪でも引いたのであろうか。玉子酒を飲んで二階で寝ている。一方階下からは家族の団欒の声が聞こえてくる。本来、普通の家族にとって団欒は平凡であるが、最も大事なことであり、それが風邪で分断されてしまったのである。中七に団欒に加われないもどかしさが見える。 塗椀の木箱に戻る四日かな 田村たつや 片付けてコーヒーの香の三日かな 内海はるか 両句とも正月三が日を終えたあと、日常生活に戻る行動を「晴れ」から「褻」への手順を示すことで詠んでいる。 田村氏は三が日の「塗椀」は雑煮など晴れの日に使うものであり、褻に戻る日を「四日」とし、「木箱に戻る」の手順が日常生活のきっかけとなると見たのである。 内海氏も「三日」が「晴れ」から「褻」に移る日としている。このときに正月の諸々の物を片付けて、コーヒーカップに変えることが日常生活に戻るきっかけと見たのである。「コーヒーの香」が褻に戻る象徴なのである。 金曜の鞄の重さ冬満月 岡田 憲幸 サラリーマンの師走の風物詩と見た。師走は年末年始休に向けて溜まった仕事を片付けることで忙しい。この忙しさを「金曜の鞄の重さ」に代弁させた。土日に書類を自宅に持ち帰って仕事をする哀しいサラリーマンの実態である。そして「冬満月」を、澄んでいるが、気持ちが冷え込む中に帰宅する焦燥感に駆られるものとして捉えた。
サングラス海か山かと聞かれけり 鷹羽 狩行 掲句はサングラスの季語を一つのツールとして使うことによりストーリー性を構成した句となった。サングラスは海水浴にも登山にも必須のアイテムである。内容的には休暇から帰ったときの友人との会話から「海」「山」を引き出す質問として展開させた。それがストーリーの見える元となったのである。一つの季語を主題として詠む姿勢からサングラスの新しい詠み方を開拓したのである。これが名誉主宰の構成力を作る強さである。 雪解川追はるるごとく急ぎけり 片山由美子 掲句の雪解川は激しさを持っている。〈雪解川名山けづる響かな 前田普羅〉に代表されるように雪解川は急流となる場合が多い。主宰はここで雪解川の激しさを擬人化表現により強調している。具体的には「追はるる」「急ぎけり」と疾走するような早さで捉えた。それが雪解川自身が焦燥感を持っている結果にもなった。ところで昨今の温暖化は一旦春ともなれば雪解川は予想以上に増水して激流に変身する時代になってしまい憂いている。 風音や加湿器に水足しをれば 伊藤トキノ 「加湿器」の季語には元々「湯気立て」があり、〈病室に湯気立てにけり除夜の鐘 石田波郷〉のように病人などの喉の保護の目的で使われてきた。ところが最近、新型コロナウイルス感染予防対策として、室内の湿度を保つために推奨されるようになった。この加湿器は超音波により蒸気を発生させており、水を足したあとの微振動を「風音」と捉えた。ここには現代の感染に対する不安感をも覗かせている。結論として最近の加湿器を登場させることにより、季語に新しい役割を担うようになった。 落葉踏み記憶を消してゆくごとし 佐藤 博美 落葉道を歩くと意外にも大きな音に驚かされることがある。掲句は一歩一歩踏んでいく音から自問自答が繰り返されているようだ。その自問自答が「記憶を消す」ことにつながっている。この句は踏んでいく落葉一つ一つが消していく記憶の一つ一つに呼応している。それは「消してゆくごとし」から分かる。 骨壺に入りてやうやく落花浴ぶ 丁野 弘 同時掲載句から奥様を亡くされたことが分かる。この句のポイントは「入りて」「浴ぶ」の二つの自動詞の主語が同一かどうかである。まず「入りて」の主語は当然妻である。そして筆者としては、「浴ぶ」は別の主語である作者自身が浴びていると解釈したい。「骨壺に入りて」と妻に対して為すべきことをまず一段落つけた。そのほっとしたひと時を迎えたあと、桜の散る瞬間を迎えることが出来たのである。「やうやく」に悲しみをひとまず脇にして、妻を送り終えた安堵感にひと心地ついているようである。 病院の消えぬ窓の灯クリスマス 西山 春文 句意は極めて明解である。もしかしたらこの病院は新型コロナウイルスと闘っている医療従事者のことが念頭にあるかもしれない。彼らが懸命に治療に従事していることは「消えぬ窓の灯」から分かる。一方、世の中は「クリスマス」の時期に静かな夜を過ごしているのだろう。医療従事者に向けて「クリスマス」を象徴的に登場させて、感謝の気持ちを表したのである。この「窓の灯」はコロナ禍が続く限り消えることはないだろう。 メモ一つ消しひとつ消し年用意 中島 圭介 年末の忙しさは誰しもこんなものだろう。「一つ消しひとつ消し」の「一つ」と「ひとつ」の表現の違いから雑多な年用意が見えてくる。あるものは家族からの頼まれ事であり、あるものは自身の為すべきことであろう。この雑多なものを一つひとつ消していくのが年用意である。 半島のふくらんでゐる花菜風 曲直瀬弘子 思わず房総半島を連想した。掲句は風の力による半島のふくらみを詠んでいる。しかもその風は菜の花の暖色系であり、そこから明るく広がった景色が見える。「ふくらんでゐる」と断定したことから開放感に満ちた把握となった。掲句から必然的に房総半島が丸ごと菜の花に埋め尽くされているのが見える。 幕間に逢ふ約束や菊日和 若本 繁子 こういう句に接すると楽しくなる。この幕間とは歌舞伎であろうか。秋のひと日に誰かと観劇の約束をしたが「幕間に逢ふ約束」からそこに至る事情が見えてくる。入場は別々で幕間に逢うのも菊日和にふさわしい一日であろう。「幕間に逢ふ」に心浮き立つ期待感が強く出ている。
香雨俳句逍遙 春月の出を待つ星はしりぞきて 鷹羽 狩行 名誉主宰の句に〈暈を被てマリアならずや春の月〉があるように、春の月は朧月のイメージが強いが、掲句は空が晴れわたっている月を詠んでいる。まず月の出以前の星の輝きに着目し、その後に「春月の出」が近づくと「星はしりぞきて」と輝きを「春月」にバトンタッチするのである。その交代劇を「春月」と「星」そして「待つ」と「しりぞきて」の対比表現で完成させている。ここでも名誉主宰の写生構成力の強さを見ることが出来る。 北窓を開くに本の山どかす 片山由美子 思わずあるあるの体験に共感した。冬籠りの特徴であろうか一寸油断すると、次々と雑誌、単行本が足の踏み場もないくらいに溜まってしまう。この「本の山」は冬だから許されることである。しかし春になって風の入れ替えの時期になれば、そうとも言っておられない。北窓を開けるには本の山を越えて行かなければならない。作者にとって春に書斎の整理をするための最初の仕事が「本の山どかす」ことなのである。それが「北窓開ける」という早春の季語が成り立つ要件なのである。つまり本の整理という雑事が必要となる。伝統的な季語に現代的な生活を割り込ませているところに詩を発見している。 どこまでも見えてどこへも行けぬ凧 有吉 桜雲 凧揚げは子供の頃の郷愁につながり、句材としても興趣が沸く。掲句はある意味で凧の真実を突いている。そのために擬人化を用いている。凧は一旦高く揚がると一望出来る景は果てしなく広がる。かと言っても凧は定在しなければならない。「どこまでも」と「どこへも」そして「見えて」と「行けぬ」の対句が心地よく凧の特性を表している。物の本質を捉えようという姿勢から生まれた句である。 地虫出てこの世の息をまづ一つ 太田 寛郎 春先、庭の土を掘り返したり、植木鉢をひっくり返すと、思わぬところから地虫が出て一瞬たじろぐ。人間の眼と地虫自身の視点は当然違う。地虫にとってみれば、地上に出たときのとまどいはかくあらんという趣であろう。作者は、冬眠から覚めたときの地虫の行動はまず息をすることだと見ている。それを「この世の息」と定義したのである。地虫にとっては無意識であろうが、人間にとってはこの小さな存在も人間と同じ息をしていると認識して、図らずもユーモアに満ちた一句となった。 飛び立ちてまづ影の消え冬の蝶 高瀬 桜 掲句ははかなげな冬蝶の生態を瞬間的な把握で捉えている。飛び立つ瞬間の動作を詠むのでなく、飛ぶことによって影が消えたことに着目したことがこの句の特徴である。「まづ影の消え」と丁寧に写生したのは、はかなげな冬蝶であるからこその写生であろう。その結果、影をなくすのは、冬蝶の必然であると言及している。 風音に遅れて木の実しぐれかな 石川のぶよし 木の実落つ思ひ出したるやうに落つ 矢吹あさゑ 「木の実落つ」の季語を二句ほど抜いてみた。ともに木の実の落ちざまの生態を的確に捉えている。 石川氏の句、「風音に遅れて」の措辞が絶妙である。一般的な「木の実しぐれ」は次々と降るように落ちるだけかもしれないが、この句はその元となる詩因を風音に遅れたことに求めている。風音との時間差が木の実しぐれにつながる詠み方は木の実が落ちる生態の一つの発見である。 矢吹氏の句、一転木の実に寄り添った姿勢が見える。ただ落ちるのでなく、「思ひ出したる」ように木の実自身の意志によって落ちると、思いやって詠んでいる。その結果、逆に思いがけず木の実の気ままな姿勢も見えている。 微笑みも看取りのうちや小六月 草野 准子 看取りに代表される介護は時に、深刻になりがちである。看取りをいかに明るく振る舞うか、それを句にするかは、作者の姿勢や思いやり次第である。掲句の「看取り」に「微笑み」を入れた動作に救われる。「小六月」という一寸安らぎの見える季語を配したことにも読者は救われる。 押せば押し返さるるなり落葉籠 松崎 幹 冬の間に落葉をかき集めて腐葉土などを作ることは日常的によく行われる。掲句は落葉の弾力性に着目している。落葉集めが終わって籠に押し込むとき、その軽さゆえに誰しもぎゅうぎゅう詰めにする。ところがその落葉の意外な抵抗力に作者自身が驚いている。「押せば押し返さるる」の重ね言葉が詰め込み作業の結果、落葉が弾力性を持っていること即ち、落葉の生命を詠んだのである。
香雨俳句逍遙 薄氷におもてもうらもなく流れ 鷹羽 狩行 常に季語や物の本質を掴むことに鋭い感覚を持っている名誉主宰にとって数多くの「薄氷」の句に対する視線に類想感はない。例えばこの二月号の「リスペクト狩行」で若手が「薄氷」の句を鑑賞している中にも類想感はない。 掲句の「おもてもうらもなく」も薄氷の本質を突いている。私達は便宜上「薄氷」を表面から見ているため、表と裏があるように見ているが、「薄氷」側から見れば、表も裏もなく、等しく流れているだけである。表も裏もない「薄氷」の真実を詠む視線に、これまた類想感はない。 無防備の背中の囲む焚火かな 片山由美子 もともと焚火には郷愁を感じるものがある。掲句は焚火の特性を的確に突いている。普段焚火にあたるときは無意識に手をかざす。端から見れば一斉に手をかざして、囲んでいる背中の様子はどこからも攻撃されそうな危うい背中である。これが「無防備の背中」である。しかも焚火にあたっている全員が無防備なのである。こういう無防備な背中を見せるのは焚火しかない。 コスモスとしばらく同じ風の中 伊藤トキノ コスモスを撮らむとすれば風の出て 原田 慶子 どうもコスモスと風には親和性があるようだ。コスモスを鑑賞するとき生活の一齣として日常生活との取合せで詠むことも多いが、一点凝視するには風しか考えられないのがこの二句である。 伊藤氏の句、コスモスを見に来たのであろう。色の可憐さもさることながら風に揺れているコスモスこそがその真髄であると思っている。仮にその風の中に立って見れば、作者がコスモスと同化した存在であることに納得出来る。 原田氏はそのコスモスを愛でる際には、写真に収めることを常としているのだろう。そのためほぼ無風の状態で最適なショットを捉えることが肝要である。しかしそういう時に限ってコスモスが風に大揺れする。さらにこの句には切れがないことから、コスモスの気ままで自在さを読み取ろうとしているようである。 両句ともコスモスが美しいときは風が必須なのである。 露の世に露の大小ありにけり 西宮 舞 掲句に出てくる「露」のリフレインの役割を吟味する必要があろう。「露の世」と言えば「露のようにはかなく消えやすいこの世」という無常な慣用句として使われている。これはいわゆる抽象の「露」である。これに対し「露に大小」とは現実を表す具象化された「露」である。さらに「大小」と述べてそれぞれの表情を読み取っている。同じ露でありながら、抽象と具象の対比によって露の存在を強調している。さらに下五を強く言い止めたところに現実の露の存在がクローズアップされる。 長き夜や同じ画集をまたひらき 牛田 修嗣 秋の夜長と言えば、最もくつろぐべき季節と言える。読書でも音楽でもよいが、絵画が好きな作者にとって画集を見ることが至福の時間であろう。好みはいろいろあるが、夜長にふさわしいのは静寂に満ちたユトリロか東山魁夷あたりであろうか。いずれにしろ「またひらき」から延々と眺めて、絵画に親しむストーリー性が見えてくる。 群れとんぼぶつかりさうでぶつからず 佐々木育子 この「群れとんぼ」は群生している赤とんぼであろうか。その群生の感覚は「ぶつかってくる」と表現したくなるが、掲句はさらに踏み込んで「ぶつかりさうでぶつからず」とあたかもとんぼの意志であるような生態のイメージを補強して写生している。単に多いだけでなくとんぼの飛翔の実態まで迫っている。 ところでこの赤とんぼが近年急速に生態数を減らしている。鹿児島県、山口県など県単位のレッドリストではアキアカネを絶滅危惧種に指定している。その原因は主に田んぼの農薬である。これは赤とんぼだけにとどまらず、人間が生態系の崩壊を加速させているからである。掲句のようなぶつかりそうな赤とんぼに出会いたいものだ。 疎ましきまでに青松虫しぐれ 櫻井さだ子 「青松虫」は明治時期、中国大陸から帰化した外来生物であり、近年の地球温暖化で急速に殖えており、北上している。「青松虫」は樹木の枝に生息しており、枝からの鳴き声もすごい。夜間の道路工事かと思うくらいである。掲句はそんな「虫しぐれ」を「疎ましきまで」と体験に基づく認識で詠んだ。作者は新しい俳句の素材を開拓しているものの、在来種の虫時雨が本来あるべきものだとの願望があることを逆説的に表現している。
目の覚めるところで覚めてお元日 鷹羽 狩行 元日は一年で最もゆったりと朝を迎える日である。卒寿を迎えられた名誉主宰にとっても元日は同様の朝であろう。〈目の覚めるところで覚めて〉に心の余裕が見える。元日ともなれば決められた時間に起きる訳でなく、目が覚めたときに起きればよいのである。それはこの上五、中七に切れ字を入れないで、言いさした表現に自在さが見えることから分かる。それは初夢を詠んだ〈初夢をさしさはりなきところまで 狩行〉も同様で切れのない言いさした表現のつぶやきが自在さにつながってきている。両句とも切れのなさから「元日」「初夢」ののどけさを誘導している。 燃えたたせたき一面の枯芒 片山由美子 普通日常の枯芒を見ていると、そこに火をつけたくなるような発想には至らない。その衝動はある程度の〈一面の枯芒〉にならないと触発されない。〈一面の枯芒〉と言えば筆者は奈良県の曽爾高原を思い出す。ここには見事な芒原が一面に広がっている。そんな高原に身を置けばつい火を見たくなるような思いに至ることもある。掲句の〈燃えたたせたき〉と発想した原点は具体的な〈一面の枯芒〉がきっかけであろうが、逆にまず〈燃えたたせたき〉ものを原点としてスタートし、そこから〈一面の枯芒〉を詠んだのかもしれない。いずれにしても果てしなく広がった「枯芒」が感動の原点である。 父のすぐあとに母の忌ぼたん雪 岬 雪夫 父親や母親の忌日の記憶は間違えようのない季節があり、他人には分からない季節感と一体となった忌日である。作者は本格的に春が近づく「ぼたん雪」の記憶に父と母の忌日の記憶を重ねている。しかも父と母の共通の記憶である。表現的にはまず〈父のあとすぐ〉と直接忌日を持ち出さない出だしからおもむろ〈母の忌〉を持ち出したことが忌日を効果的なものとして位置づけている。 子の書棚われの書棚や虫すだく 鶴岡 加苗 親子の固い愛情の絆が見える句である。秋の夜、虫の音に惹かれて、母子がそれぞれ書棚から本を取り出して読書でもしているのだろうか。この句のポイントは〈子の書棚〉と〈われの書棚〉を並列に配置していることである。即ち一つの書棚に親子が同居している。本を取り出したのは〈子の書棚〉であり、且つ〈われの書棚〉なのである。子供の書棚が母親の書棚と一体化して寄り添っている。ここに親子の絆が見えるようである。 風にときをり大揺れの合歓の花 高橋美智子 高橋氏はつい最近逝去された。最後の句として繊細な「合歓の花」を鑑賞したい。合歓の花は赤から白への扇形のグラデーションが細やかで、まさに虹のように咲く。そんな合歓の花を一点凝視した句である。掲句は合歓の花の〈大揺れ〉の様子を見ていると、それは風のせいだと言っている。〈風にときをり〉から小さな風、大きな風のどちらも大きな揺れを演出する。合歓の花はどんな風にも繊細さを失わないで大揺れするのである。 飛石のひとつひとつの秋の声 園 るみ子 「飛石」は普通、土を踏まないで庭園を伝い歩き出来るように配置されている。そして掲句の「秋の声」は具体的な声でなく、心で捉えた秋の気配であろう。静かな秋の庭園を歩く飛石には足音が聞こえないが、作者は間違いなく「秋の声」を感じとっている。それは〈ひとつひとつの〉とゆったりとした中七から分かり、心耳というより飛石のそれぞれを足裏から声を聞いている秋の気配である。 等分といふ美しさ新豆腐 千鳥 由貴 その年に収穫された大豆から作られる「新豆腐」は喉ごしのやさしさが際立つ。掲句の新豆腐は包丁で正確に切り分けた「等分」の新豆腐が最も美しさを発揮すると作者は主張している。他に〈さいのめの花びらめきて新豆腐 狩行〉もあるが、この句は包丁で切り分けられた「花びら」の美しさを発見している。即ち両句の「等分」「花びら」の美しさは包丁が生み出した美なのである。美を演出している陰の主役は包丁である。 亡きひとの席を設けて今日の月 三栖 隆介 古来、中秋の名月は日本人が最も好む夜空であろう。作者は今年、この月を愛でるには、何かが足りないと思った。それはともに愛で合うべき人がいないことである。一人で愛でるにはあまりにも寂しい。昨年と同様にもう一人の席を設定したのであろう。さらにそこには二人分の酒杯もあってともに酌み交わす月の宴席を設けたのかもしれない。〈席を設けて〉にそんな感慨を覚えた。 |
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