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インターネット句会の体験的課題(3) | 平成17年 |
インターネット句会の体験的課題(2) | 平成17年 |
矢野孝子句集『草の花』 | 平成17年 |
インターネット句会の体験的課題(1) | 平成17年 |
写生、客観写生と即物具象 | 平成17年 |
山たけし句集『散華』 | 平成17年 |
私の吟行地(熊野古道) | 平成16年 |
悦子句集『悠』を読んで | 平成16年 |
インターネットと俳句 | 平成16年 |
海上の森と藤前干潟 | 平成15年 |
「初霰」を読んで | 平成14年 |
自句自解 | 平成13年 |
俳句と環境 | 平成13年 |
私の吟行地(鈴鹿連峰) | 平成10年 |
周平と波郷 | 平成9年 |
初学の頃 | 平成8年 |
山の俳句 | 平成7年 |
(「伊吹嶺」2005年11月号転載)
インターネットによるいぶきネット句会も一年が過ぎ、当初の不安をよそに、月々活発な論議が交わされてきた。この運営方法はほぼ成功したと言えるだろう。その成功した要因としては、クローズドグループによるメーリングリスト、チャットルームによる意見交換、選評会に仲間意識を持たせたことが成功したのだと思う。
月々の討論テーマも、投句の中から自然発生的に提起されるようになってきている。つい直近の例として二つのテーマについて議論が交わされた。一つはルビ俳句から振りがな、当て字の問題、二番目は破調から字足らず、字余りの問題さらに音便の勉強会までと充実してきている。
それでは現在の問題として何があるだろうか。それは形式がインターネットであれ、普通の句会、雑誌投句であっても、俳句の基本は変わらないということである。もともといぶきネット句会は全国に散在している会員をネット上で一つの句会として設立した経緯から、俳句の基本という理念の共有知識、共有体験にばらつきがある。
しかし私はインターネット句会であっても俳句の基本、「伊吹嶺」の理念は変わらないと思っている。また本来、結社が違っても俳句の基本は変わらないと思う。
そのあたりの事情については、幸いに名古屋周辺の会員にとってよい勉強の場となっているのは、栗田主宰の中日俳句教室の講義である。つい最近、主宰は「結社は違っても俳句の基本は同じである。」との考えを基に、多結社も含めて、これまでの俳人の句を例に俳句の基本を説いておられる。ある会員がこの講義録をまとめて、いぶきネット句会にもメール配信されている。こういう機会を利用して会員の勉強度が深まることを期待している。
「伊吹嶺」では即物具象による写生を基本に自分の感動を表現することをコンセプトとしているが、この俳句の基本は子規の唱える写生から発展している。一方、虚子の唱えた客観写生は当時主観が氾濫したことからの一つの軌道修正として用いられた手法である。客観写生と即物具象は決して同じ道筋にあるものではなく、どちらからどちらが派生したというものではないことを確認しておきたい。
俳句に基本はあくまで、まず対象物に対して感動がスタートであり、その感動をものに借りて写生するという即物具象で感動を現すことである。この理念は詳述し切れないが、毎月の栗田主宰による「伊吹集」の選後評、「伊吹嶺山房雑記」で折々に説かれていることが俳句の基本であり、既に私達はここから多くのことを学んでいる。
これらをもとに俳句の基本をインターネット会員にも共有知識として身につけて貰いたいと考えている。
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インターネット句会の体験的課題(2)
−−季語の本意の共有化−−
(「伊吹嶺」2005年9月号より一部修正転載)
現在、「伊吹嶺」のいぶきネット句会の運営は半月あまりのサイクルで確立されている。即ち、毎月1〜5日までが投句期間、5〜10日が選句期間、11日〜15日までがML(注)による投句に対する事前意見交換会、15日〜16日にチャットルームによるリアルタイムの合評会、17日〜20日に同人による個別添削のサイクルとなっている。
このサイクルのうち、主にML及びチャットルームにおける意見交換会が各個人の疑問点などを披露する場になる。既に「伊吹嶺」6月号に体験的課題を述べたが、さらに最近の体験の中から、気のついたことを以下に述べたい。
それは季語の持つ本意をインターネット句会でどのように理解するか、共有化するかの課題が持ち上がっている。まずそのような季語の本意の理解を共有化する必要はないとの意見もあるだろうが、インターネット句会と言っても私達は「伊吹嶺」に所属している者にとっては栗田主宰の伝統詩である俳句に対する思い、即物具象を目指すという枠内では、会員としてもある程度の共有化は必要だと思う。過去話題になった季語について具体的に紹介した方が分かり易いだろう。例えば「春の水」、「四月馬鹿、萬愚節」、「聖五月」などを例に、季語の本意が議論の話題になった。
「春の水」については既に本誌6月号に紹介したが、「四月馬鹿、万愚節」についてもどのように詠み込むかの真剣な議論がなされてきた。
「四月馬鹿、万愚節」の季語については、ある程度季語の成り立ちから考えて、単に四月の初めという感覚だけで作るのでなく、もともとの宗教的、歴史的な背景を持った成り立ちから俳句を作るべきだとの意見があった。例えば、「万愚節」を使用する場合は、十一月の「万聖節」に対比された季語としての本意に従って句を読むべきだとか、「四月馬鹿」を使う場合は四月初めの季節感でよいとか、議論が活発に行われた。会員句以外に次の句などを題材に議論がなされた。
四月馬鹿一日古書を入れ替ふる 栗田やすし
上官を殴打する夢四月馬鹿 沢木欣一
万愚節半日あまし三鬼逝く 石田波郷
「聖五月」という季語も同様で、単に五月の明るい感覚で詠むのでなく、根底に宗教的な背景(聖母マリアの月)を踏まえた本意で詠むべきだとの意見もあった。ここでも例句を題材に季語の本意について議論がなされた。
鳩踏む地かたくすこやか聖五月 平畑静塔
聖五月樹樹は洩れ日を胸に抱き 鷹羽狩行
クリスタルガラス重ねて聖五月 長田 等
これらの例はいずれも合評会では結論は出なかったが、そこには通常のフェイスツーフェイスにおける句会とは違った熱い雰囲気があった。これは遠隔の会話であっても顔の見えないことから自由に発言できる雰囲気がそうさせているような気がする。一方発言のし易さからその場限りの思いつき発言が出ている現実面もある。
今後、インターネット句会であっても「伊吹嶺」会員であることを踏まえた季語の把握、共有化という課題を解決する方法を考える必要がある。
そのためML、チャットによるによる合評会では補えない不足分を補完する方法が必要となる。
そのための一方法として、オフ句会を今まで実施してきた。これはネット上でなく、実際に一堂に会して、吟行などの実践の場を通じて会員相互の意識統一を図る方法である。もちろんここには親睦の意味も入っている。
また現在、毎月の中日俳句教室において栗田主宰が30分ほど、俳句の基本、「伊吹嶺」俳句の目指すものは何かを非常に分かり易い語り口で講義して頂いている。この講義録がいぶきネット句会会員に同報配信されている。この講義録をじっくりと読むことがインターネット句会にない俳句、季語などを理解する補完の一方法であることは間違いがない。
しかし今のオンライン状態でも俳句の基本の勉強会を行う場を考える時期に来ていると思われる。これらの作業を通じてインターネット句会は俳句の一つの座としての位置を占めることが出来るかさらに体験的に挑戦していきたい。
(注)ML(メーリングリスト)とはインターネット上のクロージンググループで、会員に情報の同報配信するメール送受信の一方法
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華のある写生
−−矢野孝子句集『草の花』を読んで−−
矢野孝子さんが句集『草の花』を上梓された。孝子さんは昭和61年に「風」入会でもうベテランの域に達する。私が「風」会員時代に、「風作品」に毎月1,2句しかとられていないときに、矢野さんは毎年「風」新人賞の候補に上がっていた実績のある方である。本来はもっと早く「風」同人になるべき人であった。今回の句集でその実力の一端をまとめて読むことが出来る。
句歴20年の実績を基に出された『草の花』を読むと、一言で言うと華のある写生に満ちた句集という印象を受けた。それは孝子さんの相手に明るさを与えてくれる人柄によることもあるが、栗田先生が序文で述べておられるように、少女時代に画家になることが夢であったことによる色彩感覚が句にもにじみ出ているものと思う。その象徴的な句が、
ローランサンその桃色の春ショール 平11
である。この句は当時、朝日俳壇の飴山実選の巻頭に選ばれた句であるが、そういう背景を除いても、春ショールの桃色とローランサンの組み合わせがまさに華のある句である。リズムもよい。「ローランサン」とまず切り出し、「その桃色の春ショール」とたたみ掛けたリズムに春の浮き立つよう気持ちと桃色の鮮やかな色が読む者に飛び込んでくる。栗田先生の「ローランサンの甘美で繊細な世界を捉えている。」との評が孝子さんの笑顔と重なり合ってくる。
以下、好きな句は数多くあるが、思いつくままに鑑賞してみたい。
抜き棄てし蕪に花咲く雨水かな 昭61
「風」入会1年目にこんなに把握のしっかりした句を作られるのはそれまでの色彩感覚の裏打ちがあるからであろう。雨水という捉えどころがなく、かつ春が徐々に進んでいる微妙な季語に「蕪の花」という色彩を組み合わせた感覚がすばらしい。この句が現在まで続いている孝子さんの華のある俳句世界のスタート点だと思った。
観月会たたみし茣蓙に露かすか 昭62
吟行句、行事句はややもすれば報告的になり易くなるところ、「霧かすか」と感覚的写生で言いとめたところに、早くも沢木先生の即物具象の目指すところを会得しているのを見て、とうてい私はかなわない。
初蛍葦の葉先をすべり落つ 昭63
川に来て二手となれり稲雀 昭63
1句目の「葦の葉先をすべり落つ」に写生の確かさを感じる。2句目の素直な写生は子規の「若鮎の二手となりて上りけり」と比較すると、同じ「二手となり」という表現でありながら、川と稲雀との組み合わせに、時代が進んできた感覚の冴が見られる。
一駅を母に送らる夕しぐれ 平2
こういう母への思いが「夕しぐれ」の季語によりしみじみとした味わいが出て、私達に伝わってくる。
風去りてより牡丹の崩れかな 平3
牡丹の崩れる様の美しさを「風去りてより」という滑らかなリズムにより、一層引き立てている。牡丹の終わりに風を感じたところが孝子さんの才能を示すものであろう。
サングラスして密告の口覗く 平7
イタリアの旅行吟。私は「最後の晩餐」を想像したが、サングラス、密告という組み合わせにどきっとさせながら、絵を見た的確な印象をうまく出されたと思う。
薄氷の岸を離れてかがやけり 平8
花粉玉抱きて蜜蜂地に転ぶ 平9
いずれも深い写生眼による即物具象である。物をよく見るということはこういう句のことをいうのだろうか。丁度この頃が度々「風」新人賞候補にあげられた時期だったと思うが、即物具象に忠実な句が実を結んだ頃である。この時期にさらに、
竿竹に身ぐるみ干して昼寝海女 平8
竹箒棒となるまで野火叩く 平10
などの句のように「身ぐるみ干して」「棒となるまで」など的確で大胆な表現に磨きがかかり、ますます孝子俳句に惹かれていく魅力に溢れている。
苦瓜の種の赤さや敗戦忌 平11
栗田先生が述べられているように、誓子と重ね合わせた心情と苦瓜の赤に思いを託した敗戦忌の句として忘れられない句だと思う。後年、孝子さんらと広島を訪れたときの
被爆樹の裾に砂浴ぶ雀の子 平16
の句が思い出される。
綿虫やまだ濡れてゐる生地の碗 平12
生活の場である瀬戸の日常吟であるが、「まだ濡れてゐる生地の碗」と発見したことを「綿虫」の出現が必然性を持って伝わってくる。
武蔵野に落葉踏みしむ別れかな 平13
ひとにぎり草の花摘む綾子の忌 平14
いずれも沢木・細見先生への思いがこもっている。師を偲ぶ気持もあくまで「落葉」「草の花」というものに託してそれでいて読む者にとって両先生の鎮魂歌として訴える力が強い。
こうして思いつくままに鑑賞してみるときりがないが、華のある写生という捉え方だけでなく、孝子さんの多様性が随所に出てくる。それは基礎に即物具象の把握の確かさがあるからであろう。好きな句はいつまでも尽きないが、以下好きな句を並べて終わりたい。
刈り残す稲田に夕日残りけり 昭62
籠を編む竹が地を打つ蕗の薹 平4
手渡しで赤子降ろさる遍路舟 平4
冬うらら象の大きな座りだこ 平4
膝に置く聖書の温みやちちろ虫 平6
試歩の母木槿の下に来て休む 平6
息かけしほどの温みの寒牡丹 平11
まなじりに湖のきらめき蜆汁 平12
ポンプ井の袋真白し今朝の秋 平12
夏帯を解きて胸乳のほてりたる 平13
亡き父の表札外す半夏雨 平14
咳一つして花嫁の父となる 平15
棚経の僧づかづかと上がり来る 平16
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インターネット句会の体験的課題(1)
−−試行段階における共通認識−−
(「伊吹嶺」2005年6月号より転載)
いぶきネット句会がスタートして半年が過ぎた。全国的にはいろいろなインターネット句会があり、その運営方法もいろいろあるが、私達「伊吹嶺」のいぶきネット句会はその運営方法も含めて「伊吹嶺」2005年1月号に伊藤旅遊さんが紹介している。その一番の目的は「伊吹嶺」会員で各句会に所属できない方々を対象に、インターネット上で句会を行おうというものである。特に選句後のチャットによる合評会に特徴がある。
これまで半年間参加してきて、体験的に思ったこと、さらに今後の課題に若干触れてみたい。
現時点で考えたいことは、各地の会員の共通認識をどのように持つかである。これまでの運営の中で、まず第一に議論になったことは季語をどのように捉えて詠むかである。普通の句会ならこのような課題は問題にならないが、フェイスツーフェイスで句会を行えない以上、季語の使い方、解釈にも各個人にばらつきがある。それはチャットによる合評会に顕著に出てくる。最近の例として、「春の水」という単純な季語でもどのように捉えるかが議論になった。ある人は通常の常識的な捉え方でなく、冒険的な使い方を試してみたいとの発言があったし、季語にはそれが持つ本意というものがあるので、その本意に即した実感で詠むべきだとの発言もあった。
他の季語でも同様にあったし、季語が動くとはどのような句の場合かについての議論も熱心に行われている。日頃対面できないメンバーに対して活発な議論が出来るのは逆にネット句会の一つの利点かもしれない。
第二に俳句を作る態度についても共通認識をどのように持つかの議論があった。例えば俳句の実感を詠むためには虚構も許されるのか、逆に事実に基づいた俳句を読むべきだとか、他に「客観写生」と「即物具象」との違いの議論など、普通の句会には見られないある程度真剣で、俳句の本質に踏み込んだ議論もなされるようになってきている。これらはチャットという顔が見えない気安さから議論しやすいネット句会のひとつの特徴かもしれない。逆にこういう議論が互いに目に見えないチャットでは誰もが納得しているのか、議論の行方をある程度収斂させることが出来るのかなどの課題もある。
今は現在進行形の形で、合評会前に互いに疑問点を出し合う補完作業などによる試みを行っているが、これからも種々な課題が出てくるだろうと思っている。これらを体験し、課題に一つずつ解決していく作業を続けて次第に「伊吹嶺」としてのインターネット句会の確立に協力していきたい。
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今月のいぶきネット句会で「客観写生」と「即物具象」とはどう違うのか盛んにMLのやりとりがありましたが、最終的には、江口さんが次のように説明なさっています。
「客観写生」は対象を自分の感情を考えずに見たまま、ありのままを写すこと。「即物具象」 とは形のない思い(感動)を形のある物(象)を借りて写すこと、つまり即物具象による写 生は自分の感動を形あるものに託して表現することです。
とまとめられています。
「客観写生」、「即物具象」という説明はこれでよいと思いますが、特に「客観写生」という言葉は歴史的経緯から虚子が作り出した造語ですから、注意が必要です。
せっかくの機会ですから、手元にある限られた本から、少しこれらについて歴史的整理をしてみたいと思います。
私はこれらの整理に当たって、子規の「写生」、虚子の「客観写生」、「風」の「即物具象」の3つのキーワードに分けて考えてみたいと思います。
まず俳句の歴史上初めて、「写生」という言葉を使ったのは正岡子規です。明治初期、子規は俳句分類を続けている中で、江戸俳諧から続いてきた旧派宗匠達による月並俳句の打破に立ち上がり、その手段として使ったキーワードが「写生」の必要性を説いたものです。
当時子規が打破すべきと考えた「月並俳句」とはどういうものか、栗田先生は次のようにおっしゃっています。
子規は新俳句と月並俳句の立場を比較して、その「根底よりの相違」として、我は直接に感情に訴へんと欲し彼は往々知識に訴へんと欲す(「俳句問答」明治29年7月27日「日本」)
と説いている。この「知識に訴へ」るというのは、理知的な判断に待つことを意味し、理屈によって俳句を作ることであり、子規の言葉を借りれば、「理屈とは感情にて感じ得可らず、知識に訴へて後初めて知るもの」ということになる。(栗田靖「月並俳句の打破」『子規・写生』平13.5角川書店)
そして子規はとくに写生の明確な定義はしていませんが、
写生といふことは画を画くにも、記事文を書く上にも必要なもので、この手段によらなくては記事文も全く出来ないといふてもよい位である。(正岡子規『病牀六尺』1927.7岩波文庫)
また
実際の有りのままを写すことを仮に写実といふ、又写生といふ。写生は画家の語を借りたるなり。(「日本付録週報」明治33.3.12)
とあり、これらから私としては「写生は従来の知識(過去の和歌等の趣向)に頼った固定観念で俳句を詠むのでなく、ちょうど画家のように見たままの対象物を言葉で写し取ること」と考えます。
明治後期、一時俳壇を離れていた高浜虚子が「ホトトギス」に復帰して以来、優秀な新人が輩出し、虚子もこれら新人をもり立てています。そこで、虚子は大正4年頃から、「ホトトギス」の「進むべき俳句の道」の中で渡辺水巴、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎、前田普羅らを推奨しながら、主観の涵養を説いてきたが、大正末期にはこれらの俊英に影響されて、「ホトトギス」は主観俳句の氾濫状態が現れるようになり、虚子は次の新しい弟子を育てる必要性から、この「進むべき俳句の道」で、言動が次第に客観写生へシフトしていくことになります。
さらに虚子は
主観を脱却して空うして大自然に接せよ。また客観の研究は無限に続く(「写生といふこと」「ホトトギス」大正13年10月号から連載)
などと説いています。
即ち、虚子の言葉を借りて「客観写生」を定義すると、
客観写生の修練は段階的に進み得るもので、客観たる「花鳥」を忠実に写生していると、花鳥が「非常な親密な、非常に力強いもの」となり、主観はおのずから、花鳥を通して、花鳥の中に現れるようになるという。ここに至れば、虚子の客観はむしろ「造化」というべく、子規の近代の眼・心に映じた「自然」とは趣を異にし、花鳥と共に人間を在らしめている存在と言ったものとなる。(川崎展宏「客観写生」『現代俳句辞典』昭52.8角川書店)
ということになり、虚子は必然的に「客観写生」から、昭和2年の「花鳥諷詠論」に突き進んでいくことになります。花鳥諷詠まで論を進めると話が発散してしましますから、ここでやめます。
そして「風」で沢木欣一先生を始め、「即物具象」と言ったのは、冒頭江口さんがおっしゃったとおりで、私は、
俳句はまず対象物に対して感動を詠むことに始まります。その目に見えない感動を形ある物に託して(即物)、それを具体的に述べることにより(具象)、自分の感動を伝えるということです。そしてその即物具象を俳句として表現する方法として、写生を基本スタンスとしているとも言えます。従って「風」の即物具象による「写生」は、虚子が「客観写生」を唱え、後に、この世の自然界の現象並びにそれに伴う人事界の現象(花鳥風月)を諷詠するという「花鳥諷詠」とは俳句を作る態度が違う。
と考えます。
そして沢木先生は即物具象による写生を進めていく上で、厳にいましめているのが月並俳句です。
月並俳句というのは要するに観念的な俳句で、一句の中で、理屈を述べているものである。感覚、感性に訴えるよりも常識的な観念で一句を仕立てるのが、月並俳句であり、初めて俳句を作る人はたいていここから出発する場合が多い。これを脱出してまともな方向に移るのであるが、この一線がわからぬ人も多い。(沢木欣一『俳句の基本』平7.3東京新聞出版局)
ともおっしゃっています。
私自身、ひょっとすると沢木先生がいましめている理屈を述べた月並俳句を作っているのではないか、安易な気持ちで作っているのではないかと自分自身で反省したいと思います。
大分議論が発散しましたが、私がこれまで述べたことから、「客観写生」と「即物具象」の違いをくみ取っていただければ幸いです。
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寡黙な句集
−−山たけし句集『散華』を読んで−−
「風」の大先輩である山たけしさんの第二句集『散華』が上梓された。
山さんとは平成15年夏に初めてお会いした。我々インターネット句会で金沢に吟行に出かけたとき、参加していただき1日金沢をつきあっていただいた。山さんのような大先輩にとって、我々インターネット句会連中とはずいぶんキャリアの差があるにもかかわらず、終始穏やかな笑顔で接していただいた。初めてお会いしたときの印象は寡黙で温厚な印象を受けたが、今回『散華』を読んでみても、その人柄と同じ寡黙な印象を受けた。しかし寡黙でありながらものに対する詠み方には、静かな中にも確かな写生の目を感じた。
今回の句集では数少ないが、亡き父を詠んだ句に注目した。
亡父の足袋大きすぎたる日向かな
父入れし筆あと読始め歎異抄
歎異抄に落葉はさまれゐたるかな
牡丹散つて父の無口に似てきたる
逝く父の掌の温かりし百日紅
特に第4句の〈牡丹散つて〉の句は、私と私の父の間柄に重ね合わせて読むと、驚くほど似た共感を覚えるのである。私の父も話し下手で、世の中の渡り方がずいぶん下手であったが、私も父のDNAをすっかり引き継いで、全くの無口である。山さんもお父さんに対してそのように感じていたのであろう。
ただ山さんは「牡丹散つて」という背景でしみじみとした感慨をかもし出しているところに山さんの俳句の特徴が見られる。また他には骨格の太い写生に徹した句が多く、これらの句に接するとき、これらが私達の目指すべき指標を示していただいている句であることに気づく。
最後にこのような句とか感銘を受けた句を列挙しておく。
佛燈の燃ゆる音して春立てり
鍬くさび打ちて響けり寒の納屋
錆釘を落して雪を汚したる
春雷と思ふ目覚めの一人かな
氷屋のうら鉄塔の錆きざす
青芝を撥ねる巻尺はがねかな
はたはたに蹴られて肩の暖かし
喪の家に倒れ重なる梅雨の傘
蜘蛛の糸ゆする風でて半夏生
抜き釘を石でのばせる立夏かな
閻王の怒りのあごのおぼろかな
団扇ふと止まりて出づる独り言
夜の匂ひ崩るる牡丹かもしれず
呼び合うて声のつながりし蕨採り
啓蟄や絹糸で切る茹で玉子
夏安吾読みゐる濁音なきお文
水錆の田へ雪代を放ちけり
舌焦がすふたりきりなる蜆汁
枯山にふはりと降りし虹の脚
夏の燈のかげりなき部屋癌告知
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私の吟行地 ――熊野古道 (俳人協会三重県支部報(04.12.8)一部加筆)
十年ほど前、三重県に住まいを構えるようになるとともに、体力的な衰えから、レジャーは登山、マラソンからハイキングに切り替えている。幸い、三重交通の熊野古道バスハイクは低料金で一日楽しむことが出来、妻と毎年少しずつ出かけている。
熊野古道は今年、ユネスコの世界遺産に登録され、全国的に知られるようになった。熊野古道は歴史的には、熊野信仰が広がりを見せ始める平安末期から次第に熊野詣での参拝道が整備され『梁塵秘抄』の中で「熊野に参るには、紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し」と唄われているように、それぞれが険しい山道を越えなければならなかった。現在は、当時の石畳、石仏、地蔵などの名残を見たり、多雨温暖な地域から生息している植物の種類も多いことなどから、吟行の題材は豊富である。
私達三重県人にとって、なじみの深いコースは、ツヅラト峠の紀伊長島町から、通り峠の紀和町までの東紀州エリアであり、県境を越えれば熊野三山は間近である。コースには急坂ゆえに石畳が美しい馬越峠、徐福伝説のある波田須、峠から見る海岸線が美しい大吹峠、松本峠、海沿いの七里御浜そして棚田に癒される丸山千枚田など変化に富んだ古道が多く、三重県人として、これらを俳句に詠み続けていくことが世界遺産を守っていく力になるのではないかと思っている。
熊野道地獄の釜の蓋踏んで 隆生
以下は今年五月に出かけた松本峠
松本峠から見た七里御浜 |
鉄砲傷のある峠の地蔵 |
キラン草(地獄の釜の蓋) |
卯の花の盛り |
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海外詠の楽しさと難しさ
―――山本悦子海外俳句集『悠』を読んで―――
山本悦子さんが海外俳句集『悠』を上梓された。『悠』は海外詠を六十九句に厳選されたもので、ご主人の山本哲也さんの写真とともに編まれた写俳集である。カメラ歴三十年の哲也さんの写真を眺めているだけでも旅の楽しさが伝わってくるが、悦子さんの俳句を読むとさらに旅心をかきたててくれる。悦子さんとはチングルマ句会の登山行でよくご一緒させていただき、もう十年のおつきあいである。
海外詠には読む楽しさと詠む難しさがある。まず何と言っても海外詠は読む者にとって楽しさを伝えてくれる。
冬銀河シェルパダンスに加はれり
にはチングルマ句会の皆さんの夜営地で踊ってる雰囲気がよく伝わり楽しさと躍動感に溢れている。また
イグアスの滝に突込む雨燕
の瞬間の把握が海外詠にも成功している。
一方海外詠には難しさもあわせ持っている。その難しさは二点ある。第一に海外の固有名詞を詠むことにいかに読者の共感が得られるかという難しさである。しかし
天山の新雪仰ぎパオを解く
ラサ川の岸に巡礼髪洗ふ
などは地名を知らなくてもその雰囲気、抒情は十分伝わってくる。固有名詞を悦子さんのなかで反芻して、写生を手法として日本的な俳句としてとけ込ませている。
二点目の難しさは海外詠に最も日本的である季語をどのように詠み込むかである。そういう観点で日本人には同化している季語が私達にどのように働きかけているかを期待して読んだ。
虎刈りの羊緑雨へ放しけり
メコン川の水をかけ合ふ穀雨かな
などは海外詠でありながら違和感なく、日本的な季語による詩情を醸し出している。句集『悠』にはこれら二点の難しさを乗り越えた強さを持っている。それは沢木欣一先生、栗田やすし先生の目指している即物具象が海外詠にも通用する基本であることを物語っている。
その他、若干私の好きな句について述べてみたい。
銀漢の斜めにかかるエベレスト
にはエベレストに行ったことのない私にもこの銀河の斜めの位置に納得出来る。悦子さんが「岳人俳壇賞」を受賞したときの選者である岡田日郎氏もこの句を誉めておられる。さらに
幕営の夏炉に足せりヤクの糞
町薄暑フランに替へて水買ひに
草刈りに届く夕べの弥撤の鐘
など好きな句は限りなく、これからも哲也さんとともにますます俳句と写真の領域を広げて行かれることを願っています。
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―――インターネットと俳句―――
(「伊吹嶺」平成16年4月号より)
最近、私のインターネットおたくも相当進んでいるが、俳句においてもインターネット環境の普及によりインターネット句会が未曾有の勢いで増殖している。
俳句はもともと「座」の文芸と言われてきた。現在私たちが作品として雑誌等に掲載される俳句はフェイス・ツー・フェイスの座において、ある手順を踏んで完成されている。いわゆる句会という座で作品を披露し、選句というふるいに掛けられ、さらに指導者の批評をくぐり抜けて作品は完成されていく。これが結社誌などに掲載される。
一方、インターネット句会の現状を見ると、ホームページ形式であれ、BBS(掲示板)形式であれ共通していることは、インターネットの特質である双方向性、即時性を利用していることである。ここで句会の座をインターネットに置き換えて見るとインターネット句会は分り易い。句会の手順である投句、清記、選句、結果発表、場合によっては指導者のコメントなどすべてインターネットでも可能である。
この座の句会とインターネット句会の比較において、インターネットは新たに俳句の座となり得るインパクトを持っているのだろうか。さらに俳句の中味(質、詠むべき主張等)まで変え得るのだろうか。
俳句の質、主張というものは相対的な価値観であるが、従来の結社にとってはもっとも本質的なものである。例えば私達「伊吹嶺」という結社において勉強している身にとって、栗田主宰も触れているように沢木先生は「俳句は物を素直に見ることが初めであり、終りである。この態度、方法は実はまことに至難の道である。」と説かれており、これが私達が目指す俳句の本質であり、中味である。
このように「座」を基本としつつ、俳句の本質は変らないだろうが、インターネットの本質的なもの(双方向性、即時性)は俳句の座となる要素を持っているとも言える。既にインターネットは、外面的なところから俳句の座としての位置付けを主張しているかもしれない。
私達は俳句が変わるものと変わらぬものとの狭間にあって、どれが本質か、どれがツールか、どこに変化の兆しが現れているかの見定めが必要となる。
そういう意味で、私自身の存在は小さいが、私は俳句とインターネットという座の関わりについて、俳句がどう変貌していくかを意識しながら、俳句の現場に携わっていきたい。
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環境問題は一つのことをきっかけに思わぬ方向に発展することがある。近年、名古屋市周辺で二つの例がある。
その一つが海上の森である。愛知万博誘致を検討したが、絶滅危惧種に登録されているオオタカの営巣が確認されたことから、万博会場は海上の森の南端のみとなり、環境保護されることになった。その後、植物の絶滅危惧種も発見されている。吟行する者にとっては海上の森は、春はシデコブシ、ハルリンドウ、ギフチョウ、夏はサギソウ、ミズギボウシ、カワセミ、秋はシラタマホシクサ、ワレモコウなどいつ訪れても題材にこと欠かない。見るべき場所は大正池、篠田池、ものみ台などがあるが、ハイキング用の表示がないので、ホームページなどの地図を頼りに吟行することをお勧めする。
もう一つは藤前干潟である。ここは九十年代後半に名古屋市が廃棄物処理場として計画していたが、住民等の環境保護活動の結果、市は埋立て事業を中止し、二〇〇二年にはラムサール条約登録湿地にも指定された。この干潟は今は日本最大の野鳥渡来地であり、特に秋から春にかけて、サギ、シギ、チドリ、カモ、カワウ、アジサシなど約百種近くが観察できる。ここへの吟行は二つ考えられる。一つは直接干潟の突堤に出る方法で、もう一つは対岸の「名古屋野鳥観察館」から遠望する方法である。いづれも干潮時にゴカイ、カニ、貝類などを求めて干潟に集まってくるときが最適である。
この海上の森、藤前干潟はこれからの吟行地として新しい例句が出てくると期待される。
交通アクセス
○海上の森 愛環鉄道の山口駅より東へ徒歩約二十分で森の案内看板のある入口に着く。自動車の場合、入口に駐車場がある。
○藤前干潟 名古屋駅の名鉄バスセンターより三重交通バスで長島温泉行で「南陽町藤前」下車(三十五分)。サークルKを南へ徒歩十分。
○名古屋市野鳥観察館 名古屋市バスで、名古屋駅、金山駅から野跡行で「野跡」下車して徒歩十分。自動車の場合、名古屋市港サッカー場の駐車場が観察館の前。
(『愛知吟行案内』15年発行より)
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山下智子句集『初霰』を読んで (「伊吹嶺」平成15年5月号より)
この度、山下智子さんが喜寿、ご主人の七回忌、『名古屋歩く会』の創立三十五周年を記念して句集『初霰』(伊吹嶺叢書第十四篇)を上梓された。栗田主宰の序文、山田春生氏の跋文を読むと句集をまとめられる経緯がよく分かり、日頃親しく接していただいている私達にとって待ち望んだ句集です。句歴二十七年に対してわずか二百四十七句に厳選された密度の高い句集である。
この句集の特徴に第一に取り上げるべきことは山の句である。ここには『名古屋歩く会』とともに歩んだ山下さんの思いが詰まっている。
土筆わらび待合室で分けあへり
霧の山熱きコーヒー回し飲む
まづ払ふ三角点の杉若葉
コッヘルの豚汁に浮く蕗のたう
蕗の葉に盛りて分けあふ昼弁当
私の偏った一つの視点で山の句を抽出してみた。山の句はどこに登っても同じような題材になり易く、その山特有の句を作ることは難しい。しかし山下さんは登山の中から自分の行動を述べることによってその山への思いを残している。そういう句に私は注目した。一句目は句集の巻頭句で、私も蕨が好きで、こういう経験はよくあるが、それを「待合室で分けあへり」により、その場の雰囲気がよく出ている。これが風入会早々に作られたことに敬服したい。二句目のコーヒーを回し飲みするとか、三句目の杉若葉を払う動作の発見に山下さんの優しさがにじみ出ていると思う。四句目の蕗のたう、五句目の蕗の葉が題材に出てくるのを読むと、私達も登山の楽しさを共感してしまう。題材の特質をうまく取り上げたところに山下さんの詩情がうかがえる。その他ごく一部を抽出してみる。
色濃かり氷河の跡の鳥かぶと
根こそぎの樺ころがる雪解谷
だいもじ草釘の浮きたる崖梯子
それぞれ「氷河跡」、「雪解谷」、「崖梯子」など山固有の材料をテーマにしているものでも、一句目の色濃い鳥かぶとを持ってきたこと、二句目の根をむき出しにしている樺、三句目の釘が浮き出ている様子などそれぞれの写生が句に臨場感を持たせている。
強力が運ぶ霊水ななかまど
女人堂熔岩を積み上げ雪囲ひ
山下さんとのおつきあいは「チングルマ句会」に参加させていただいた平成五年からである。以後毎年山行きに参加させて貰ったり、山下山荘にご招待いただいたりしている。登山では若い私より強い持久力で道案内して貰い、あちこちの景色のポイントを紹介していただいた。掲出の二句は作った現場をよく知っており、私の共有体験として残っており、懐かしさを感じる。もっと私の記憶に残っている句が読めないのは残念であるが、これも山下さんが厳選した句集を上梓された厳しい態度の一端であると思う。
桐壺の英訳なりし初講義
ピンセットで剥がす古文書銭葵
私の知らない山下さんの一面である。栗田主宰も述べられているように晩学にも全力でぶつかり、桐壺の英訳や古文書の勉強など、具体的なものに即して自分の体験を述べているまさに即物具象に忠実な句である。
バザールの砂塵まみれの鷹の爪
鳥葬台尾を立て走る黒蜥蜴
巡礼が沸かすバター茶大花野
釣瓶落しパオの炉に足すヤクの糞
海外詠が多いのも『初霰』の特徴である。チベット、雲南省、トルコなどと毎年のように出かけ、本句集に挿入された句友による写真とともに楽しませてくれる。掲出句のいづれもがその地に根づいた生活の一端をよく切り取っている。一句目の鷹の爪を砂塵まみれと捉えたこと、二句目の黒蜥蜴の観察、三、四句目の題材の的確さとともに、日本的な季語もよく溶け合っている。いずれも写生に忠実な態度が外国詠でも違和感なく読める源である。
心臓に薬張り替ふ朝曇
あぶら蝉鳴くと一行看取りの記
出棺に白梅ひらく二三輪
遺影笑むカサブランカてふ百合の中
山下さんとのお付き合いの中で触れなければならないことにご主人のご逝去がある。日頃、ご主人のご容態についてあまり述べられず、句会指導に精進なさっていたが、これらの句を見るとその頃のご心痛がしのばれる。一句目、ご主人の看病に対する心情を朝曇に託した気持が伝わってくる。二句目、看取りの日記にも心重いものがあったと同情する。三、四句目にご主人との別れの無念さがあふれ出ている。これに引き続き沢木先生との別れの句に、師を慕う気持を隠すことなく、出しておられる。
白菊をあまさず切りて師に捧ぐ
今、沢木先生の写真が書斎に置いてあると聞いており、そこに菊を供えられたことと思う。これからも沢木先生の教えに従い、私達あとに続く者のご指導に、また山にもご一緒させていただきたい。既に米寿に第二句集を出版されると聞いていますが、これを期待して拙い鑑賞を終わらせていただきます。
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遠雷や錠剤飲みて快眠す (昭和39年作)
昭和三十九年電電公社に入社と同時に、松井利彦先生の紹介により「風」に入会した。この句は始めて四句入選したときの一句。当時は風の俳句を十分知らず、沢木先生に採っていただいた重要性も認識していなかった。今から思うと汗顔のきわみで、独りよがりであったと思う。この句は独身寮時代、夏風邪をひいたときの句。
田で貰ひ耕耘機にはさむ暑中見舞 (昭和41年作)
この頃は毎年転勤があり、私の周りは誰もいなかったし、吟行もしたことがなかった。今から思うと、「風愛知」に所属して勉強することは非常に効果的だと納得できる。
この句は風作品の佳句に取り上げられ「作者の感覚が新鮮で若々しい。一寸類を見ない新しさである」と評して頂き、うれしかった。
木婚や錠剤壜に捩花を (昭和49年作)
仙台で結婚して、五年目の時は東京に勤務していた。住んでいた社宅は芝生が広くて、毎年多くの捩花が咲いていた。この芝生で子供を放し飼い的に遊ばせていたが、妻はこのような野草が好きでよく花瓶に挿していた。この句は東京句会で沢木先生に採っていただいた記憶があり、以来捩花は私の好きな花になった。
雷鳥の霧より出でて霧に消ゆ (平成3年作)
およそ二十年近く俳句から離れていたが、この年に再入会して、初めて作った句。俳句を中断しているとき、何度も俳句をまたやりたいという気持といまさらという気持が交錯していたが、会社のある研修をきっかけに「周りは関係ない。年令も関係ない。自分のために俳句を作ろう」という思いで、ふっ切れた感じがした。
この句は白馬岳に登ったときの句で、雷鳥が霧の中を見え隠れしていた様子は幻想的であった。
甲斐駒の雲を脱ぐとき岩雲雀 (平成8年作)
風愛知ではいろいろな人との出会いがあり、山と俳句が結びつくとは思わなかった。この出会いに感謝している。
夏は登山、冬はマラソンというスポーツの組合せが続いていたが、マラソンの句はいまだに一句も出来ていない。
この句は「チングルマ」と「雲表」の合同吟行のときに作ったもの。天候に恵まれ、花、鳥などの自然と出会うのは心が洗われる。
城塞の銃眼越しの花菜かな (平成9年作)
平成九年にNTTを退職した。三十年近く妻に何もしてやれなかったので、再就職までの休暇の間に、一緒にスペイン旅行に出かけた。このとき私のスペイン語能力はすっかり錆びついており、妻をあきれさせてしまった。
この句、グラナダを見下ろす城塞から見る菜の花が印象的であった。
山の辺の棚田の上の初雲雀 (平成11年作)
三重に引越ししてから、心理的に奈良が近くに感じられるようになった。名古屋句会の吟行にもよく奈良へ出かけた。特に山の辺、飛鳥は万葉集にも多く詠われており、和歌が身近なものとして納得できる風景が多く、私のフィーリングに合うようだ。
地卵が木箱で届く寒露かな (平成11年作)
この年、風作品で巻頭にしていただいた思い出深い一句。
再出発してから、低調な時期が長く、このときは驚きとともに非常にうれしかった。
この句は岐阜の実家からの帰りに醒ヶ井の宿に寄ったとき、軽四輪車から民家へ卵を運んでいるのに出くわしたときのものである。そばの溝川ではハリヨ、梅花藻を見ることができる清流で、古い家並みの残っている落ち着いた中仙道の宿である。
父と酒くみ交す夜の遠花火 (平成12年作)
父が亡くなったときは、俳句を中断中の平成元年で、父のことを詠んだ句が全くなく、申し訳ない気がする。晩年は好きな酒を手放すことなく、愛飲していた。時々家に帰るとき、晩酌に付き合っていたことを思い出す。
職退きて早き目覚めやほととぎす (平成13年作)
この年、三十七年間のサラリーマン生活を終え、定年退職した。サラリーマン時代はストレスが溜まることも多かったが、地方にいたときは楽しいことが多かった。
退職した当座、いつもと同じ時刻に目が覚めるのは、サラリーマンの性か。しかし朝早く聞くほととぎすの声に改めて退職した実感が湧いてくる。
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俳句と環境 (「伊吹嶺」平成13年3月号より)
畦焼の香を技藝天の膝下まで 綾子
この句は昭和四五年の「秋篠寺九句」とある一連の中の畦焼の一句であり、この畦焼を見た昂ぶりがあの「女身仏に春剥落の続きをり」の賛歌に、結びつくのであった。掲出句について、綾子先生は「技藝天の膝下に立った時、また改めて畦焼の香が強くよみがえり、畦焼の香を技藝天の膝下まで運んできたと思った。」とおっしゃっている。
話は変わりますが、掲出句のような「畦焼」という生活に根ざした日本の原風景の俳句が出来なくなる時代が来るとしたらどうしますか。
環境と言う言葉が一人歩きすると時代は思わぬ方向へ行くものです。昨年、「廃棄物処理法」の改正により、原則として焼却炉や野焼きが禁止されました。特に農作業の野焼き、焚火などの規制が問題になります。
赤い焔、顔に感じる熱、煙の匂いなど焚火には郷愁を感じる独特の魅力があります。青春時代の思い出であるキャンプファイヤーの楽しみがなくなる恐れも出てきました。
いじめられる子猿焚火にうづくまり 欣一
行政側にとって一番の問題は野焼きなどで、塩化ビニールなどの塩素を含む物を燃やすことです。これによりダイオキシンの発生は草や木を燃やす時の約千倍になります。しかし草や木でも大型焼却施設の約二百倍のダイオキシンが発生します。従って一般の野焼きまで規制の対象にせざるを得ないのが現状です。もっとも現行法では若草山、大文字山の山焼きや左義長などの伝統行事は規制の対象にしていません。
とんど焼き海際に大崩れせり 綾子
環境問題は名古屋市にも大きな影響を与えています。藤前干潟の埋立て処分場を断念したことなどから、大都市では初めて「容器包装リサイクル法」の完全実施をスタートさせました。このため名古屋市民はゴミ分別に振り回され、とうとう名古屋から逃げ出した大学教授まで現れました。この混乱はいつまで続くか分かりませんが、日本では循環型社会を目指した環境問題から逃げることは出来ません。
この中で私達俳句を作る者にとって日本の伝統に基づいた行事を大切にし、汚染されつづける干潟を慈しむ俳句を作ることにより、環境と共生した日本の自然を守っていく義務があるのではないかと思っています。
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三重県に転居してはや三年、当初は鈴鹿の山に登る機会も増えると期待していたが、事実は登山の機会が逆に減ってしまった。それでも鈴鹿の山は私にとって新たな吟行地というより、心をリフレッシュしてくれる散策路である。
鈴鹿の春は藤原岳の福寿草から始まる。福寿草を見るたびこの花は新年でなく春の季語だといつも思う。五月は御池岳のかたくりが楽しみであるが、近年極端に少なくなり、残念である。
夏は涼を求めて竜ヶ岳の滝巡りや愛知川の膝まで浸かっての遡行がほととぎすの声と重なって思い出される。花では霊仙山のイブキトラノオ、野登山の白蛍袋が印象的である。
秋は御在所岳、雨乞岳の紅葉に尽きる。青空の下、緑、赤、黄の三原色が鮮やかな稜線にいつも感動する。
冬山はやらないのでこれが私の吟行素材となる。それにしても私の鈴鹿の句はいつも貧弱と思うが、今年もどの山から登り始めようかと楽しみである。
尾根に出て雲まぶしめり岩鏡 隆生
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桐咲くや掌触るるのみの病者の愛 周平
雪はしづかにゆたかにはやし屍室 波卿
藤沢周平が死去して、また惜しい時代小説作家が一人いなくなった。山本周五郎につながる市井物や歴史に出てこない下級武士を扱った小説は目線を私たち庶民のレベルまで下げて描いているのが好きであった。特に要所要所の自然描写がすばらしく、これはまさしく日本人の原風景を呼び起こす俳人の目で書いた表現であると思う。
冒頭に波卿の句とともに掲出したのは、ともに肺結核時代の暗い気持ちの時代を並べて見たかったからである。波卿は既に「馬酔木」主要同人で、絶唱とも言うべき「惜命」発表しているに対し、周平はまだ世に出ていなかった。病状は波卿が肋骨七本切除、秀平は五本の切除で似ているが,波卿は合成樹脂充填手術を選ばざるを得なかったに対し、周平はストマイ治療が間に合い、完治している時代の差が波卿には悲劇的であった。
そして周平は昭和四八年に直木賞を受賞することが出来た。周平の初期の作品は非常に暗い暗い表現を引きずっているのに対し、波卿は小康を得ている時代の「春嵐」、「江東歳時記」には安らぎを感じるものがある。しかし周平も結核からの恐れが完全になくなる頃より明るさを増し、ユーモアを含んだストーリーの展開そして自然描写に磨きがかかるように変わってきている。
特に私が一番愛する小説「蝉しぐれ」に描かれている自然描写には私達が忘れ去った尊いものへの郷愁を思い出させてくれる。これが一時、周平が句作していたものが小説に引継がれていったのではないかと思う。
最近、読み忘れていたものも含めて、短編、長編を問わず読み惚けている次第である。
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渡り鳥はるかなとき光りけり 川口重美
遠雷やはずしてひかる耳かざり 木下夕爾
瀬の岩へ跳んで銭鳴る二月尽 秋元不死男
スコップの斜めの深さ苜蓿 多田裕計
最近、三重に引越したとき、ダンボ−ルか
ら原稿用紙に綴じた数冊の句集が出てきた。NTT入社後東京勤務のとき、先輩諸氏からお借りして筆写したものと思われる。とくに川口重美、木下夕爾の瑞々しい詩情には、まだ俳句を始めて間もない私にとって、俳句でこんなに若々しい表現が出来るのかと驚きで一杯であった。木下夕爾の田園生活から青春を思わせる繊細な感覚を描きだした句は今でも好きである。
秋元不死男についても「もの」俳句に代表される即物的表現には尊敬していた。後年、古本屋で「瘤」を見つけ、狂喜の思いで読んだことも思い出される。
多田裕計先生には逗子の御宅におじゃましたり、私のつたない雑文を「れもん」に載せていただくなど心広く接していただいた。句作をやめて二十年振りに始めた今も、当時の初心を忘れたくないと思っている。
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今年もチングルマ、雲表句会による登山吟行は盛況で、五十名近くの参加を見た。木曽の千畳敷カ−ル、木曾駒岳、三ノ沢岳などの吟行で印象深い句も多かった。
山頂に石一つ置く原爆忌 綱川恵子
山岳俳句ではその山に固有な俳句を作ることは難しい。俳句七月号にも山の俳句には「自然があっても生活臭がない」「素材が貧困になる」「山登りの思いが一般の人には伝わりにくい」などと評されている。
山の俳句は石橋辰之助、前田普羅、福田蓼汀等により素材開拓が行われてきたが、まだ絶対数的に山登りの俳人が少ないことから、私達初心者に参考となる句集も少ない。俳句研究九月号には山田春生さんはじめ8人の夏山讃句の特集が組まれている。ここにはそれぞれ山を愛する意気込みは十分伝わってくる。
雪渓を割って掘り出す遭難碑 春生
「岳人俳壇」には毎月チングルマ句会の多くの仲間が入選掲載されている。私も身体の続くかぎり山に登り、一期一会となる俳句を作り続けたいと思っている。
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