俳句についての独り言(平成18年)

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谷口千賀子句集『薔薇』 平成18年
栗田せつ子句集『鵜の川』 平成18年
インターネット句会の体験的課題(5) 平成18年
インターネット句会の体験的課題(4) 平成18年
石原進子句集『初硯』 平成18年
夏目悦江句集『鰯雲』 平成18年

    行動力に溢れた句集
       ーーー谷口千賀子句集『薔薇』を読んでーーー

 谷口千賀子さんより句集『薔薇』を頂いてから、なかなか感想を述べる余裕がなかったが、年も押し詰まり千賀子さんへのお礼代わりに感想を述べてみたい。
 まず句集全体を通じて感じたことは精力的に各地を吟行した句が多く、その行動力に敬服した。

    糸取女指先冷やす山の水       H7
    神門のギヤマンに透く晩夏光     H8
    凍て土間に練りたての墨艶めけり  H9
    夏遍路待つ間に杖洗ふ         H10
    祭果て月しろの中鹿眠る        H10
    玖瑰へ函館線の汽笛かな       H11
    ミレー見て信濃路に買ふさくらんぼ  H12
    朝市に買ふ葉山葵の露まみれ     H12
    飢餓谷のまだやはらかき蝉の殻    H15
    御嶽の全山見えてそばの花      H15
    出島への短き橋や柳絮飛ぶ      H16
    残る蝉声を限りに無言館        H16
    身に入むやゴッホ手擦れの大聖書  H17

 こうして見ると全国くまなくまた外国の旅吟にも意欲を見せている。特に無言館での句。残る蝉の声に作者の戦没画学生への思いが伝わってくる。

 「伊吹嶺」にはクラシック音楽ファンが多く、名フィル定期会員の方も数名いらっしゃる。千賀子さんとは席が離れているせいか、講演会場ではまだ一度もお会いしたことがないが、いつかはバッタリと会うことだろう。次のような句はクラシックファンとしては抜いておくべき句だろう。
     
     山荘にチェロを聴きたり梅熟るる      H6
     バッハ聴く窓に稲妻つづけざま       H6
     さやけしやヴィヴァルディ聴く木曽の町  H14
     大雪やくり返し聴くモーツアルト       H17

 よくホテルでミニコンサートを聴くパック旅行があるが、一度信濃で音楽三昧したいものである。

 また序文で栗田先生も触れているように家族を詠んだ句も多い。
     大雪や母に百合根を甘く煮る     H7
     母逝けり花見団子を一つ食べ     H10
     父の忌に薔薇赤々と芽吹きけり     H11
     彼岸なる母に添寝や星凍つる     H14
     絶筆となりし賀状をしまひけり     H14
     夕端居兄の足裏の父に似し      H15
     見舞夫居眠りてをり小春の日     H16
     おとうとの忌や冬雷の一つ鳴る    H16

 お姑さん、両親、兄弟、夫どの句をとっても家族に対する優しいまなざしが伝わってくる。四句目、既に亡くなった母の添寝の痛切な思いが「星凍つる」に代弁されている。七句目、見舞いに来たご主人が逆に居眠りしている様をほほえましく見ている。これは小春だからだろう。
  
 また吟行句であれ、日常吟であれ、実によく観察、即物具象に忠実な句が多い。
     髪染めて新涼の風うけており    H3
     厨の灯灯せば浅蜊潮吹けり     H4
     喪疲れの髪を洗へり日脚伸ぶ    H10
     落蝉の犬に嗅がれてとび立てり   H11
     どんど火のほてりに押せり車椅子  H12
     鵜籠運ぶ天秤棒に振り分けて    H12
     ものの影みな濃くなりて春立てり   H14
     ギブス巻く足放り出しレース編む   H14
     春寒し回転ドアを杖で押す       H16
     安静の窓辺ただよふ雪蛍       H16
     退院の厨に冬の日があふれ     H16
     薔薇畑の花屑焚いて掃納       H16
     冬芝にせきれいの来て癒え近し   H17

 こうして見ると生活感溢れた日常吟の佳句が多い。一句目、俳句を始めたばかりの新鮮な感覚に今の千賀子さんの出発点としての素質がうかがえる。七句目、単純な情景の中に春の息吹をよく捉えている。こういう一句一章の句は難しいのだが、ずばりと春の真実を表現している。十句目以降、一度は体調を崩されたが、今はすっかりお元気そうである。今後も元気よく、各地に出かけ、千賀子さんらしい明るく、行動力のある句を見せてほしい。

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   自然体で簡明な写生に思いのある句
    ―――栗田せつ子句集『鵜の川』を読んで―――

 栗田せつ子さんが第3句集『鵜の川』を上梓なさった。せつ子さんとは私が「伊吹嶺」編集に加わるようになってから親しくさせていただいている。私達周囲をいつも明るくしてくれる天真爛漫な心を持った方である。筆者略歴を見ると誕生日が私と同じなのも親近感を感じる。以下気のついたことを述べさせていただいて鑑賞としたい。

 まず句集全体を通じて感じたことは、一言で言えば「自然体で簡明な写生に思いのこもった句が多い」と言うことである。これは吟行句であれ、日常吟であれその態度は変わっていない。これがせつ子さんの人柄なのであろう。具体的に各テーマの中で読み取っていきたい。
 この句集全体には吟行句が多い。この期間全国縦横に駆けめぐり、句にバラエティが富んでいる。

  風除けの筵垂らして窯火守る   H10
  干若布片寄せ婚の荷を通す    H12
  山葵田を抜け来し水に鍬浸す   H12
  蜆選る伊吹颪に身をさらし    H12
  滝水を使ふ暮しや種浸す     H13
  研ぎやせし鎌光らせて蘆刈れり  H13
  朝のミサ終へきて枇杷の袋掛け  H16
   龍神の祠残して蘆刈れり     H16
 これらの句に共通することは、吟行句であってもそこには生活に根ざした情景、対象物を詠むことにより、自分のもの、自分の心に引き寄せて詠んでいることである。これにより吟行句に生活感がにじみ出てくる。これがせつ子さん自身の生活態度につながっているのだろう。第1句の「風除けの筵を垂らす」こと、第2句の昆布干しの生活に婚の荷を詠むという生活感、第3句以降それぞれ「鍬を浸す」、「蜆選る」、「種浸す」、「蘆刈れり」、「袋掛け」など何れも日常生活の動作にせつ子さんの視点がうかがえる。吟行に出かけても常に生活者の態度を読み取ろうとするせつ子さんの心がけではないかと思う。

 また旅行吟にせつ子さんのつぶやきにも似た楽しさも見つけることが出来る。
  どぜう屋に人が溢るる年の暮   
H10
  春うらら地獄で茹でし卵買ふ   H11
  足湯して見るさいはての朧月   H16
  薄氷の割れ目より鳰顔出せり   H17
 この句集には「足湯」の句が多く、せつ子さんは足湯がお好きなようだ。

 中山純子先生が序文でも紹介しているように、この期間、せつ子さんは父上、姑上を見送り、そして沢木欣一先生のご逝去にあった時期であり、これらを詠んだ句は淡々とした写生でありながら、それぞれに亡くなった人を悼む心が痛切に伝わってくる。
  八千草を活け病室に野の匂ひ   H11
  桜見る約束反故に父逝けり    H13
  朧月父に添ひ寝の通夜二タ夜   H13
  父に盛る初の仏飯梅は実に    H13
  めばる煮て仏の父と話しけり   H13
  父の喪に籠りて春も終りけり   H13
  冬川に師を失ひし顔映す     H13
  師と父を失ひし年逝かんとす   H13
  青田道危篤の母へひた走る    H14
  梅雨の月母を亡くせし夫照らす  H14
 父上を亡くされた一覧の句は、単なる生活吟に見えて、これらからこれ以上ない父上への心がこもっている。私がとくに注目した句は第2句で、父上が病床にあっても桜を見に行こうと約束したときのせつ子さんの切ない心が「反故」という一見マイナーな言葉に強く出ていると思った。これが物に託して作者の心情を述べる「風」で培かってきた即物具象の強さではなかろうか。

 その他日常吟に交じって家族、お孫さんを詠んだ句がほほえましい。
  吉報や大き寒雷一つなる     
H13
  黒潮を越えて嫁来る秋ざくら   H14
   山茶花やたたみて温き子の肌着  H15
   姫螢少女の髪を灯し消ゆ     H16
  みどり児を迎ふる家や守宮鳴く  H17
  熊蝉の声張る島へ赤子見に    H17

 以上思いつくままに書き連ねたが、「よく佳句は平明な写生に基づく。しかし平明な句が佳句とは限らない。」というが、せつ子さんの句はまさに平明であり、どれも心がこもった佳句となっていることを言いたい。これまで取り上げなかった中でも好きな句が多いが、書き出せなかった句を最後に紹介して私の鑑賞文の締めとしたい。
  鵜の遊ぶ庭で障子を洗ひをり    H10
  星うすれ伊吹嶺現るる初景色    H11
  どんどの火もろ手拡げて浴びにけり H12
  花開く綾子の好きな雑木山     H12
  初暦居間に綾子のお針箱      H13
  己が影踏んで蘆刈る伊吹晴     H13
  師を恋うて辺戸岬まで青き踏む   H14
  花筵敷いて御願の荷をほどく    H14
  負牛の倒れて暑き土ぼこり     H16
  師の句碑に手を触れて聴く秋の声  H16
  鶏頭に水撒けば師の声したり    H16
  原爆の日や鵜の川に足浸す     H17

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   インターネット句会の体験的課題(5)
           ――座の変質――

(「伊吹嶺」2006年7月号転載)

 前回、「俳句」2、3月号の「インターネットの功罪」と「俳句文学館」4月5日号の「句会のゆくえ」の二つの記事をきっかけに「横書き俳句」について私の考えを述べたが、今回はこの両者で指摘している「座の変質」についての問題を取り上げてみたい。

 前者の記事の主張の一部は「これまでの座という概念がインターネット時代になると根本から崩れる可能性がある。」「一同が顔を合わすことのないバーチャルな句会にどれだけの求心力が働くというのか。」であり、後者では「インターネット句会という名前を語りながら初めから「座の文芸」を放棄している。」などという主張である。

 これを私達が運営しているいぶきネット句会の体験から「座の変質」について考えてみることとしたい。

もともと俳句の研鑽の場は結社の「座」が中心である。ところが今一般に増殖しているインターネット句会の現状を見ると、インターネットは匿名性が強く結社への所属意識、座の意識がなくても誰でも思いつきで参加出来ることが利点である反面、これが懸念材料でもある。特に匿名性の問題がこれまでの座の概念を崩す要因となり、インターネットの負の面としての匿名性が非結社化からさらに人間関係の希薄化につながっているのではないかと思う。

 一方、私達のいぶきネット句会の現状は、投句、選句から合評会まですべてインターネット上の座で行っており、明らかにインターネット句会の座は従来の句会の座とは異なり、俳句の座は変質していると言える。しかしここでは「伊吹嶺」という結社の会員を前提として、匿名性を排除しているし、リアルタイムの合評会により人間性の希薄化も克服している。さらにバーチャルな座だけでなく、実際に一同が顔を合わせるオフ句会という制度を併用するしくみによる座を提供することにより、濃密な人間関係も築き、思いつき的な参加もない。さらに時には名古屋に集まることの出来るインターネット会員によるリアルな座としての句会も併用していることも付け加えたい。

 結論として言えることは、インターネット句会による「俳句の座」は明らかに変質しているが、インターネットの負の面を克服して、従来と同様な「俳句の座の本質」は維持できるということである。

 ただ座の変質が今後、俳句の本意への変質に発展するか、これまでの俳句の本質、「伊吹嶺」の本質を維持していけるかは、決意と行動の問題である。これからも体験を通してインターネット句会の課題に一つ一つ対処しながら、俳句の本質は忘れないで、歴史に耐えられる俳句の座としていきたい。


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   インターネット句会の体験的課題(4)
      ――横書き俳句――

(「伊吹嶺」2006年6月号転載)

 最近、インターネット俳句について興味ある記事が掲載された。一つは「俳句」2,3月号の「インターネットの功罪」、もう一つは「俳句文学館」4月5日号の「句会のゆくえ」である。前者はインターネットがもたらす功罪の結果として@横書き俳句、A季語体験の喪失、B俳句の希薄化、C座の変質の4点があるとの指摘である。後者はインターネット句会が座の文芸を放棄しているとの指摘である。
 私としてはインターネット句会を実践している者の1人として、これらの記事に賛否を表すのでなく、これまでの体験から見えてきた課題を今回は「横書き俳句」に絞って考えてみたい。
 前者の記事の指摘では「横書き俳句は縦書きの立ち姿を台無しにする。」と指摘している。
 これを私達が運営しているいぶきネット句会の体験から俳句の横書きをどのような位置づけとしてきたかを考えてみたい。いぶきネット句会の運営は、ネット会員がネット利用して投句を行い、ネット配信された投句一覧を基に選句している。この場合、投句一覧も、選句一覧とも縦書きでアウトプット配信される。但しインターネットを使う以上、投句行為や合評会はメール機能やフォーラム機能を利用しているため、当然横書きである。
 ここで会員はこの横書きをどのように意識しているのだろうか。句会では従来どおりの縦書き思考で俳句を作り、選句、鑑賞するときは従来どおりの縦書きにアウトプットした資料を使用している。従って横書きで俳句を書く(インプット)するという行為はインターネットをツールとして使用しているからで、「横書き俳句」というものがあるわけではない。
 要約すると俳句の作句、選句、鑑賞は縦書きで思考し、俳句を横書きで書くのはツールとしての位置づけである。
 ところで現在、俳句表記も横書きにしている「横書き俳句」というものがあるのだろうか。例えば最近終刊になった「月刊ペップバーン」は横書き編集の雑誌だったが、俳句を作る過程から、横書き思考しているなら、「横書き俳句」と言えるが、私には判断つきかねる。しかし俳句を横書きで雑誌編集していた勇気には敬意を表したい。
 次回は「座の変質」について考えてみたい。

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   真面目でぶれない写生
    −−石原進子句集『初硯』を読んで−−
 石原進子さんが句集『初硯』を上梓なさった。進子さんは書道の達人で、どのような書なのかいままで知らなかったが、扉表紙の短冊などを見ているとほれぼれする。
   墨にじむ紙の白さや水仙花    昭59
   筆に墨ふくませをれば初音かな  平7
   朝蝉を遠くに聞きて墨磨れり   平13
   やはらかくほぐす筆先初硯     平17

 書の句が多いが、書が日常生活そのものなので、これらの句に実感がある。

 一読して進子さんの印象を一言で言うと、「風」の本流である写生に忠実であることである。写生に忠実であることを言い直すと、真面目に写生に取り組んでいると言うことであろう。しかもその写生が初期から現在に至るまで首尾一貫してぶれていないことである。私などいい加減な写生しかしてこなかった者にとって、進子さんの態度に学ぶべきものが多い。そういう意味で表題を「真面目でぶれない写生」としてみた。そんな目で句集を読み通してみた。
   砂つけしままの水着でカレー食ぶ  昭62
   夕暮れて切つ先ゆるむ花菖蒲    平3
   花びらのよぢれて震ふ寒桜      平8
   人声にいつせいに蝌蚪泳ぎ出す   平10
   おのが葉に片栗の花影おとす    平16
   手にのせて綿虫の羽根透きとほる 平15
   墨流しの如き雲ゆく野分あと     平16

 日常の句を抜き出してみたが、いずれも日常生活の事柄にもたれるのでなく、ものを見たまましっかりと写生している。しかもその写生の目が細かいところまで行き届いている。「花びらの」「おのが葉に」「手にのせて」などがその例だろう。こういう句は派手でなく目立たないが、俳句の基本がしっかりしていると言える。毎日の生活にいくらでも句材が転がっていることを考えさせられる。

   藁しべを口に人形菊師かな     昭61
   的はねて楠へ矢のとぶ弓始    平元
   弥勒みて京のしぐれにぬれにけり 平3
   あきつとぶ牧場をぬけ教会へ   平8
   畦に足かけて稲刈る千枚田    平9
   コロッセオの奈落の底に春の草  平11
   楓の芽映れり馬の水飲み場    平15
   落柿舎の前にはじまる代田掻   平16

 吟行句も多いが、これらの句を読んでみても吟行地の固有名詞によりかかるのでなく、吟行先でも対象物をしっかりと観察している。日常であれ、吟行であれ、常に写生を忘れない進子さんの態度であると思う。

 なお進子さんの句を読みながら、ワープロで書いてみると改めて気づいたことがある。それはひらがなの使い方がうまいということである。私などやたらと漢字で表現する癖があるが、進子さんの句は17音の中にひらがなをうまく配置して、句全体のバランスを考えた句になっている。「弥勒みて京のしぐれにぬれにけり」などの句はまさにかなの柔らかさをうまく京都の情緒にマッチさせている。こういう句こそ縦書きで書かないと句姿のよろしさは味わえないだろう。これも書道を専門としている美学なのだろう。学ぶべき点が多い。

   霧深くたち込めし朝兄逝けり   平12
 ご主人を詠んだ句は多いが、それ以外は家族を詠んだ日常吟はあまり多くない。しかしお兄さんが亡くなられたときの句は心にしみる。これからもお身体に気をつけて元気な句を見せていただきたい。

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   家族への思い
     −−夏目悦江句集『鰯雲』を読んで−−
 夏目悦江さんが句集『鰯雲』を上梓なさった。昨年の暮、東京の深川吟行にご一緒させていただいたとき、まもなく句集を出版なさることをお聞きし、首を長くして待っていたところ、立派な句集を頂いた。
 どれも写生の基本に忠実な句ばかりが並んでいる。特に家族を詠んだ句に悦江さんの人柄がうかがえる。家族や日常の句から特に好きな句を選んでみた。
   娘に選ぶ加賀友禅や燕来る   昭和55
   雪解水流るる町に嫁ぎけり    昭和56
   歎異抄読み籠もりをりさくら時   昭和63
   嫁ぐ子の無口となれり春炬燵   平成元
   幼きの指のゑくぼや天道虫    平成9
   よく笑ふ母にまみえし春の夢   平成16
   師の忌より俄に秋気定まれり   平成16
 どれも家族に対して優しいまなざしを向けるとともに、よく観察した写生になっている。栗田先生が序文で述べておられるように「妻として母として、また祖母としての愛情に満ちたものである。」のとおりである。

 また写生に忠実といったが、その具体的な代表例が句集の題名となった
   時かけて一枚となる鰯雲   平成8
 「時かけて一枚となる」という把握が写生に徹しており、印象鮮明である。その他写生に忠実な句を拾い出すときりがないが、写生句の中で、静岡の風土を詠んだ句に思いがこもっている。

   
製茶機の一つ一つに注連飾る   昭和53
   茶袋に顔を埋めて茶の香きく   昭和57
   高床を吹き抜く登呂の青田風    昭和61
   登呂真昼鼠返しに蟻這へり     昭和63
   走り茶の針の如くに揉み上がる   平成元
 
ご主人が茶缶製造を営んでいらっしゃるとのことで、言わば日常吟が風土の俳句になっており、観察が深い句になる。さらに純粋な写生句で印象的な句と言えば、

   
大注連を滑車で揚げて納めけり    昭和56
   太刀魚の尾のからまりて売られけり  昭和59
   月の客影伴ひて入り来たる      平成6
 などが即物具象に徹した写生句となっている。

 静岡の皆さんと言えば初期の「風」に貢献した冨谷春雷さんを忘れてはならない。

   芽木の風茶山を渡り除幕式    昭和58
   句碑生れて春雷峡の空駆くる   昭和58
   春雷句碑まためぐり来し茶摘時  平成14
 
いずれも師に対する思いがこもっている。最後に私の好きな句で

   地たまごの固き殻割る涅槃かな  昭和59
 
の句を上げたい。忠実な写生句が多い中で、このような感覚的な句もすんなりと作られている。さらに今後とも私達のお手本となり、いつまでも優しいまなざしのある句を期待したい。

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