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現代俳句評(11月号) | 2011.11.1 |
二物配合と一句一章 | 2011.11.1 |
自註句集『下里美恵子集』 | 2011.9.10 |
現代俳句評(9月号) | 2011.9.1 |
栗田主宰講演(沢木欣一) | 2011.7.1 |
現代俳句評(7月号) | 2011.7.1 |
現代俳句評(5月号) | 2011.5.1 |
現代俳句評(3月号) | 2011.3.1 |
現代俳句評(1月号) | 2011.1.1 |
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炎上の色して麦の熟れにけり 宮田 正和
(「山繭」[宮田正和主宰]八月号)
今年は例年より梅雨明けが早く、麦秋の時期は既に猛暑日に突入していた。そのような時期の麦秋の一句である。よく観察すると、麦の熟れ色は日々変化している。掲出句の麦は熟れ色が最高の時を捉え、その最も熟れた時を〈炎上の色して〉と把握したことにより、この句は成功した。
幹すこやか枝もすこやか桜咲く 茨木 和生
(「運河」[茨木和生主宰]八月号)
いわゆる山桜は実生でしか増やすことが出来ない。吉野の山桜は七世紀に遡って植樹によって増やされて、現在約三万本を咲かせている。しかしその吉野の山桜が排気ガス、酸性雨などにより減少し、一度老化すると、苔、菌などにより幹が枯れていく。茨木氏は募金活動、色紙短冊即売会の取り組みなどにより「吉野の桜を守る」活動を精力的に行っている。
掲出句は、今年の吉野の桜であろう。〈幹すこやか枝もすこやか〉には苔や菌による老化現象が起きていない艶やかな幹であることを示す。句意そのものは今年もすこやかに桜が開いたと素直な表現で詠み、桜への感謝の気持を出している。私も俳人としても山桜を始め、日本の自然環境保全の一助となる活動が必要であることを痛感している。
照り陰る池の
(「貂」[星野恒彦代表]八月号)
樗の花咲き満ちると淡い紫色が煙るように咲く。掲出句、池の水面には日が差している部分、影となる部分があり、その明暗のある水面に等しく樗の花が映っている。淡色の樗は明暗それぞれの部分にふさわしい色を見せていることが目に浮かぶ。同時作の〈ひろやかに雨にとけ入る花樗〉にもおだやかな樗の淡いが伝わってくる。
生と死の迷路の妻に花吹雪 石井 保
病む妻の声細くなるほととぎす 〃
(「保」[石井保主宰]八月号)
石井氏の奥様が亡くなられたときの一連の句である。奥様の容態が悪くなる中、石井氏は毎日病院に通っていた。一句目、見舞いに訪れたときの妻の様子を〈生と死の迷路〉と詠んだ。何とも悲しい表現であるが、俳人として事実を捉えなければならない心情であろう。そして病室からは「花吹雪」が見える。上五、中七の心情と最高の花時との対比がせつない。また桜が散っている表現により、妻の死を予感していることも分かる。
二句目も、細くなる妻の声とほととぎすの声の対比を詠んでおり、編集後記で石井氏は「早朝からほととぎすが激しく鳴いているのがなぜか気になった。この鳥は冥途の鳥、魂迎鳥とも異名が多いことも手伝って落ち着かなかった。」と激しく鳴くほととぎすに反して、妻のか細い声を詠み、涙したことが推察される。
火の糸で闇のほつれを縫ふ蛍 石井いさお
(「煌星」[石井いさお主宰]八月号)
掲出句、作者の目の前に見えるのは闇を不規則に舞っている蛍だけである。しかし蛍を凝視しているうちに、作者は一つの結論を得た。蛍が舞っているのは、目には見えぬが闇のどこかがほつれており、そのほつれを蛍は自分の光の糸で縫っているのである。蛍の光跡を糸と認識し、闇にはほつれがあると認識した二つの認識を重ねた句である。
川底より低き輪中の田水沸く 若原 康行
(「樹」[若原康行代表]八月号)
掲出句、まず輪中は木曽三川の見えない川底よりさらに低いところにあることと断定したことに留意する必要がある。その当たり前の低位置にある輪中は当たり前のように暑い夏が来て、田水が沸いている。田水が沸くのは水位の高低にかかわらず、人智には及ばぬ自然の摂理であることを詠んでいる。
植田千枚天の近きに水甁田 村上喜代子
(「いには」[村上喜代子主宰]七・八月号)
掲出句、千枚田は各々の田へあまねく水を引き込むことが重要である。作者は千枚田の頂上近くに池があるのを発見した。自然雨水によるこの池が山全体にゆき渡らせている。ただ作者は〈天の近きに水甁田〉という措辞を得て、植田の水は天から授かった水甁であると認識した。「水甁」という言葉から観音像の持っている水甁が連想され、自然から授かった水はその観音より賜った神聖な水なのである。
点滴に時をつないで明易し 倉田 紘文
(「蕗」[倉田紘文主宰]八月号)
掲出句、たまたま作者は点滴を受けることがあった。点滴は一滴ずつ規則正しく落ちていく。その間断なき滴りを見ていると、点滴は一種の時計であるかのように感じる。それが〈時をつないで〉であり、作者の生きている証しでもある。「明易し」の季語に就寝中点滴を続け、明日への明るい期待がうかがえる。
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最近、いぶきネット句会の会員から、二物配合と一句一章についての質問を受けた。俳句構成の手法として、二物配合と一句一章があることはよく知られているが、作句段階におけるこの違いについて考えてみたい。
一番身近にある参考資料として、沢木欣一先生は『俳句の基本』において、一点主義(一句一章)について次のように述べられている。
俳句実作で苦労することの一つは単純化ということである。心を素直にし、じっくりと見つめて感動の湧くのを待つ。俳句の上で二物配合ということが言われているが、初めは一物重点主義がよい。これは実際に行ってみると容易なことではない。大変忍耐を要することであるが、一度はくぐらなければならない関門である。まずは多くの事象の中から、一点を選び、一句に仕上げることから始めるのがよい。
これに対して田島和生氏も「雉」誌で同様に、沢木先生の一点主義の重要性を説いている。その例句として
鶏頭の影地に倒れ壁に立つ 林 徹
も一点主義の凝視から生まれた句であると発言している。
私はこの句は即物具象の極地に立つと解釈しているが、根底には一点主義による凝視の成果であると認識した。
また平成二十年の「俳句研究 春の号」の「季語博捜」の鼎談の中で、片山由美子氏は
季語そのものをテーマに一句を詠むことをまず最初にやった方がいいと思うんです。二物を離してみると洒落たような気分になって、うまくなったような気がするでしょう。こんなに離したのが出来るようになったのか。でもそれは俳句の本筋なのかなという気がします。
と最初は一物から入るのがよいと発言している。
それでは一句一章の句にどのような名句があるか見てみると、私は次の句が思い当たる。
白牡丹といふといへども紅ほのか 高浜虚子
ひつぱれる糸まつすぐや甲虫 高野素十
冬菊のまとふはおのがひかりのみ 水原秋桜子
天心にゆらぎのぼりの藤の花 沢木欣一
これらの句を見ると、「白牡丹」「甲虫」「冬菊」「藤の花」などいずれも一物をしっかりと凝視し、写生していることが分かる。特に素十の句は無心に凝視することから生まれた一点主義の成果の句であると思う。
以上、始めは一点主義が重要であることを述べた。次のステップに、二物配合の句に向かうことが考えられる。
始めは一点主義(一句一章)が重要であることを述べたが、今回は二物配合について述べてみたい。
二物配合は古くは「取り合わせ」「掛け合せ」とも言い、芭蕉も発言しており、これについて山下一海氏は次のように解説している。
芭蕉は酒堂に対しては、頭からすらすらといく、いわゆる一物仕立てがいいと発言している。しかし許六には、句は二つのものを合わせさえすればできる。要するに両方のやり方があってそれをうまく使って表現の世界を深く大きくしろと言うことだと思う。
と発言し、配合の例句として、次の句を紹介している。
菊の香や奈良には古き仏達 芭蕉
また秋元不死男は『俳句入門』で配合について次のように分かり易く説明している。
配合は二物を取り上げて質の違った両者の類似や共通を見つけ出し次元を示すのが生命である。配合は構成(モンタージュ)といえるであろう。
そして数句の例句が紹介されているが、私は二物配合の句として、次の句が参考になると思う。
麦秋や書架にあまりし文庫本 安住 敦
ありあまった文庫本に対して、何となく落ち着かない「麦秋」という憂愁にも似た心の動きとの配合は絶妙だと思う。例えばこの「麦秋」の季語を「炎天や」のような明るすぎる季語とか、「冬ざるる」のような暗い季語では配合のイメージをうまく浮かべることは出来ないだろう。
以上二物配合について先人の言葉を紹介したが、作句する上で即きすぎ、離れすぎという問題が出てくる。例えば季語と季語以外の物との配合においてこの両者の関係が即きすぎの場合、イメージの広がりがなく、月並みな発想、季語の説明になりかねない。一方、二物衝撃をねらってあまりに季語との関係が離れすぎていると、イメージを浮かべることが出来ない。
最後に沢木先生の二物配合の句の一例を示したい。
わが妻に長き青春桜餅 沢木欣一
この句は欣一が復員、結婚、長男誕生という二人の道のりを乗り越え、共に歩んできた妻(綾子)の誕生日の句で、来し方の青春を振り返っている。「桜餅」という暖かみがあり、未来への願いを込めた明るい季語との配合である。
この句も「桜餅」を他の食べ物の季語で、「菊膾」「茸汁」などと配合すると、上五、中七の印象と合わないことが分かる。配合の句を作ることは難しい。しかしこれは作句者にとって永遠の課題であろう。
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下里美恵子さんの自註句集『下里美恵子集』が俳人協会より発刊された。自註句集は、句の鑑賞を深めるとともに、作者の素顔、心象そしてこれまでの人生までも見えてくる。
私が下里さんと親しくさせていただくようになったのは、「伊吹嶺」編集に加わるようになってからである。下里さんは編集記事の割付、編集企画案を作るなどてきぱきと行い、私はそばでうろうろしているだけである。
自註句集を読んでまず特徴的に感じたことは、下里さんが豊かな感性を持ち合わせていることであり、その感性を適切な言葉に変換する表現力の豊かさに敬服した。それは巻頭句にある、
ふるさとの草に混じりて栗届く 昭和53
より一環して現在まで変わらない。俳句の感性が変わらないと言うことは、技量の進歩と違い、決定的に下里さんの感性が初心者時代から持ち続けている天性のようなものである。それらの感性に感銘した句を抜き書きして見る。
雨となる空が明るし芽木の山 昭和56
籾焼の匂ひ日暮を早くせり 昭和57
榠樝の実傷深くして空青む 昭和58
花時の手足つめたく目覚めけり 昭和59
風吹けば紙の音して蓮の骨 昭和63
夕牡丹花びらの冷え地にこぼす 平成5
かきつばた夕影を濃く吹かれをり 平成9
あぢさゐが濃くて泣きだしさうな空 平成9
そら豆のまだをさなくて水の味 平成13
冬桜影やはらかくあたたかく 平成16
地に降りるまでのはなやぎ夏落葉 平成21
等があげられる。「雨空を明るく感じる感覚」「匂いが日暮れを早くする把握」「花時の手足の冷たさを感じる感覚」「揺れるのはかきつばたでなく影が濃く揺れるという捉え方」「そら豆に水の味を感じた感性」などいずれの感覚も下里調と言うより、それ以上に、天賦の感性を持っているのではないか。さらに句一つ一つを見ると、多くは一句一章で作られ、一つのものを凝視した句が多いことに気付くべきである。また「榠樝の実」の句、「地に降りるまで」の句などに綾子先生の感性も受け継いでいるように感じた。『綾子先生輝いた日々』の著書を読むと、下里さんは綾子先生の句を我が身のこととして詠んでいることが分かる。
と言っても下里さんは決して感性だけで作っているわけではない。「風」の基本である即物具象に忠実に物を凝視して、物で作っている写生句も多い。例えば以下のように、
子かまきり斧の先まで透きとほる 昭和55
冬の水飲むももいろの鹿の舌 昭和57
浜木綿や沖より波の膨れ来る 昭和58
渡る鷹つぶてとなりて去りにけり 昭和62
蟷螂の腹波打つて卵産む 昭和63
遠ざかるほど花桐の色深し 平成元
しやぼん玉影もろとも毀れけり 平成2
遠野火に応ふるごとく野火放つ 平成4
水昏れて影絵のごとき蓮根掘り 平成9
蚕飼村山より低く星飛べり 平成11
待春や溶けつつ沈む角砂糖 平成14
松手入松ゆさぶって終わりけり 平成14
辺戸岬まで一筋の道灼けて 平成20
短日やなめて尖らす糸の先 平成21
などが直ぐにあげられる。これらだけではない。全句を通じて基礎の写生力には揺るぎがない。上記の句では、「冬の鹿の舌がももいろであった発見」「渡る鷹をつぶてと認識したこと」「蟷螂が腹を打って卵を産んでいるのを見た観察力」「しゃぼん玉が毀れると影まで毀れたという発見」「紅茶などに入れる角砂糖が溶けながら沈んでいったという日常生活も常に俳句の目で見ていること」「松手入の本質は最後に松を揺さぶることと認識したこと」などの表現力はいずれも私の及ぶところではない。
また「辺戸岬まで」の句は、句碑の沢木先生に会いに行くためにある一筋の道が印象的である。
さらにこの自註句集を特徴として、ご両親を詠んでいる句が多いことである。父上を詠まれた句は私が「風」に再入会する以前の句が多く、始めて知った句も多く、共感を得た句が多い。
独酌の父の無口や居待月 昭和60
永き日の髭剃つて父退院す 平成6
麦秋を隔てて遠く父病めり 平成9
晴れきつて星飛ぶ夜を父逝けり 平成10
「独酌の父」の句を読むと私自身に重ね合わせて、子からこのように詠まれている父の気持ちに共感を得る。ただ「晴れきつて」の句はつらい別れの句であり、〈星飛ぶ夜を〉の写生に、静かな哀しみに包まれている。
一方、母上の句は圧倒的に多い。
青田道屋根より見えて母の家 昭和61
霜柱踏む音たのし母の家 平成6
夜桜へ母誘へり三姉妹 平成11
露の門手を振る母が遠くなる 平成13
母がりの朝に夕べにほととぎす 平成16
母がりへそら豆の莢とがる道 平成17
したたかに水打つて母待ちくれし 平成22
これらの句は、日頃遠く離れて住んでいる下里さんにとってたまに帰省するときの句などはやさしさに満ちている。そしてここには母の元にいるときの安らぎが見えてくる。「母の家に戻るとき、まず屋根から見えてくるという発見」「母の元では霜柱にも親しみが持てること」「母の家でホトトギスを聞く安らぎ」「打ち水をして自分を待ってくれる母」そして「実家から帰るとき、遠くなっても母の顔はいつまでも残っている」などどのような場面でも母は登場する。
以上とりとめのないことを書いてきたが、さらに下里さんの感性に触れ、「伊吹嶺」はもちろん「伊吹嶺」以外においてもご活躍されることを祈って拙い感想を終えたい。
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この度の東日本大震災に被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。この震災を受けて各結社の主宰クラスの方は俳人として震災をどのように詠んだか限られた誌面でたどってみたい。
トラックも津波の瓦礫涅槃西風 柏原 眠雨
(「きたごち」[柏原眠雨主宰]六月号)
柏原氏は仙台市に在住されており、震災後、津波などに罹災された会員安否の確認に奔走されたという。掲出句は、会員の見舞いに仙台市東海岸に出かけたときの句であろう。この時、眼にしたのは、住宅のみならずトラックも瓦礫の一つである現実を目の当たりにして、衝撃を受けたことが分かる。季語に「涅槃西風」を配したことにより、亡くなった方々への鎮魂の気持ちも込められている。
梅芽吹く津波を語りつぐごとく 加藤 憲曠
(「薫風」[加藤憲曠主宰]四月号)
加藤氏在住の八戸市の津波被害も深刻であったという。掲出句、津波被害を受けた跡地にも梅が芽吹いているのを発見した。その芽吹いた梅の生命は「語りつぐごとく」とあるように、津波被災の歴史を語る証人であってほしいとのメッセージを持った句である。
陥没の底にも咲けりいぬふぐり 今瀬 剛一
(「対岸」[今瀬剛一主宰]五月号)
今回の震災で茨城県在住の今瀬氏も自宅の塀が倒れたり、地割れ、陥没を経験されている。
掲出句、その陥没を体験された時の句である。句意は極めて平明で、陥没した地面に咲いている「いぬふぐり」を詠んでいる。しかし今瀬氏は親しみのあるいぬふぐりを題材として明日への復興の願いを込めている。それは同誌六月号に発表されている〈大地震後ぞくぞくと蕗の薹〉についても同様で、今瀬氏自身、鼓舞するために前向きな句を詠むのを自らの責務としているのだろう。
地震過ぎて一湾の輝り蝶生る 鍵和田秞子
夢に舞ふ幾千の蝶津波跡 〃
(「未来図」[鍵和田秞子主宰]六月号)
鍵和田氏は震災後の一つの象徴として蝶を詠んでいる。
一句目、震災後の希望の光として蝶の誕生を取り上げ、それは海が輝く中で蝶が生まれることは震災復興の象徴としてもっともふさわしいと認識した句である。
一方、二句目の蝶は震災で亡くなった方の生命は幾千の蝶となって夢の中で舞っているに違いないと認識している。蝶に託して亡くなられた方々への鎮魂句である。
余震また畑の崩れに初の蝶 大坪 景章
地震語るまつ毛に雪を積もらせて 飛高 隆夫
(「万象」[大坪景章主宰]六月号)
大坪氏の句、震災の情景に同様に初蝶を登場させている。畑が崩れているところに初蝶を見たのは実景であろう。しかしこの「初の蝶」に復興を願わずにはいられない気持ちを代弁させたのである。
飛高氏は比較的被災地近くに在住されており、この句は実体験の句であり、「まつ毛に雪を積もらせて」という表現はまさに物に即して詠んだ句である。具体的な物の描写により、震災の一こまが生き生きとよみがえり、即物による俳句の強さを示している。
原発の危機身ほとりに冴返る 千田 一路
大地震その後のちまた花冷えす 中山 純子
(「風港」[千田一路主宰]六月号)
千田氏の句、震災俳句で原発を詠むことは非常に難しい。「原発の危機」と言ってもそれは目に見えぬ物であり、様々に捉えられる可能性がある。しかしこの句は「身ほとりに」の措辞によって、「原発の危機」を自分に引き寄せて詠み、原発災害に遭遇された方と同じ目線で詠まれている。
中山氏の句、淡々と詠んでいるが、思いの深い句である。「その後のちまた花冷えす」と客観的な情景として詠みながら、それが中山氏の心そのものである。しかも「花冷え」の季語は被災者への思いやりに満ちている。
竜天に登り原子炉睨みをり 大串 章
(「百鳥」[大串章主宰]五月号)
「竜天に登る」は七十二候の一つで、空想上の季語である。掲出句、この空想上の竜を登場させ、原子炉を竜の眼から見た怒りの句として詠んでおり、竜が原子炉を人間の愚かさの象徴として見ている。大串氏にとってこのように詠まざるを得ない心情が突き上げてきた句である。
竜天に登り夜風に波騒ぐ 棚山 波朗
(「春耕」[棚山波朗主宰]五月号)
掲出句、同様に「竜天に登り」の季語を使って詠んでいる。この句は震災の言葉はないが、まぎれもなき震災句である。〈夜風に波騒ぐ〉は震災による津波が発生した現実であり、いわば津波は空想上の竜が天に登るとき引き起こしたものと把握した句であり、哀しみに満ちた句である。
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即物具象への展開(沢木欣一)
栗田やすし講演
今年は俳人協会創立50周年であり、これに伴い、俳人協会の偉功作家特集の俳句講座が、去る5月22日、俳句文学館において栗田主宰が「沢木欣一」について講演をなさいました。講演内容が「俳句文学館」7月号に掲載されましたので、その筆耕内容を以下に掲載します。講演内容は沢木先生が第1句集『雪白』から第4句集『沖縄吟遊集』までの経緯において、即物具象へどのように展開されていったかを講演されたものです。以下は栗田先生の講演内容です。
沢木欣一の第1句集『雪白』から第4句集『沖縄吟遊集』へと展開していく中で欣一が目指した俳句を探ってみたい。
欣一は大正8年、富山に生まれ、少年時代を朝鮮で過ごした。俳句は昭和14年、第四高等学校に入学したときより「馬酔木」「寒雷」に投句し、昭和18年に学徒出陣する際、細見綾子に第一句集『雪白』の原稿を託し、綾子、原子公平の尽力で出版された。『雪白』について、川崎展宏は「『雪白』は才能というより、青年沢木欣一の天稟とでもいうほかない、実によいものが畳み込まれていた。〈おびたゞしき靴跡印し征けり〉はそのままの姿で時代を語り、読む者に深い感銘を与える。」と評している。また坂本一郎は「欣一氏と旅、これは一つの命題であろう。旅に出て広い孤独の中に己を見つめる欣一氏の息吹がこもっている。」と評している。この欣一の旅への志向は少年時代を朝鮮で過ごし、中学校を出るまで日本の風土も自然の美しさも知らなかった自らを「異邦人」と言う欣一にとって、旅への志向は自分が持っていない故郷を観念で探し求める志向、または「故郷喪失の意識からかもしだされた「故郷回復」への志向と言うことが出来る。
第2句集『塩田』は「雪白抄」を含めて昭和31年に出版された。この時代、欣一は俳句における社会性追求の中心的作家で〈塩田に百日筋目つけ通し〉〈水塩の点滴天地力合せ〉などはその実践として俳壇的声価を高めた。欣一は『塩田』あとがきで「ぼくはこの句集に私小説風なテーマと社会的テーマの二つが共存し絡み合っていることに気付いた。」と記しており、これは〈出征旗まきつけ案山子立ち腐れ〉〈水漬く稲陰まで浸し農婦刈る〉といった社会的テーマに立つ俳句とともに、〈雪晴れに足袋干すひとり静かなる〉〈わが妻に永き青春桜餅〉といった私小説的テーマに立つ俳句が共存していることを指して言ったものである。
第3句集『地聲』は昭和48年に上梓され、ここでも欣一は〈夜学生教へ桜桃忌に触れず〉〈魚減りし海に花火を打ちに打つ〉〈黒板に繭玉の影受験生〉などにより私小説的なテーマと社会的テーマという二つのテーマのかかわり合い、結びつきを密着させようとする創作的態度が貫かれている。この句集の最大の特色は欣一自身が「現実の事物にねんごろに触れ、物自体の声を響かせたい」と記しているように即物的技法にある。山口誓子はこの句集で、「地聲は物自体の声なのだ」とし、〈黒板に・・〉の句に触れて「現実の物に即してゐる」と評している。想いを具象の中に込め、主観を抑えながら対照を的確に描写するという手法は『地聲』において一層明確に自覚されたと言える。
第4句集『沖縄吟遊集』は昭和43年夏の一ヵ月、沖縄滞在の経験を五年後に書き下ろしたものである。志城柏は「吟遊集の沖縄は、日本がなつかしくも遠い古代と、日本が戦後におかれた酷烈な現実の集約図とが絡み合った、比類のない世界で、沖縄の季節ともいうべき「夏」の季語を駆使して描き出している。これは誓子の『黄旗』の冬の世界と奇しくも好一対をなす。」と高く評価して、〈金網に青芝あれば全て基地〉〈赤土に夏草戦闘機の迷彩〉などの句を挙げ、「詠嘆は極度殺し、醒めきった眼で対照を見、欣一独特の即物的技法―地声的手法―である。」と指摘している。
まとめとして、欣一の「個を含みながら群を表現する」という志向は『塩田』から『沖縄吟遊集』へと展開していく過程で、即物具象に徹することによって一層明確化したと言えよう。(国枝隆生)
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春野来る妻光るもの籠に詰め 高橋 克郎
(「松籟」[高橋克郎主宰]四月号)
高橋氏はこの四月にご逝去された。五月に松籟五十周年記念大会を控えていた矢先の訃報で、高橋氏も無念なご心境であっただろう。四月号の作品はすべて病中吟であるが、掲出句に惹かれた。ベッドから離れられない日々の中で、奥様が外出から帰られ、そのとき奥様の籠に光るものを見つけた。この句は〈ひかるもの籠に詰め〉がポイントで、この光るものはいろいろ考えられるが、私は明るい野草を摘んで帰った印象を受けた。ただ具体的なものを言わないで、〈ひかるもの〉の表現にとどめたところに、健康への願望とひとときの安らぎの気持がこもっていると思う。 合掌
身をよぢり風の隙間を初蝶来 檜山 哲彦
もう一度飛ぶための息冬の蝶 山崎 祐子
(「りいの」[檜山哲彦主宰]四月号)
毎年、初蝶を見る時は一年の四季への期待がふくらむ時期である。檜山氏の句、目に見えない風にも隙間があり、その隙間をねらって初蝶が飛んでいると把握した。〈身をよぢり〉の写生が初蝶のこれからの自然界へ旅立つ厳しさを的確に詠んでいる。〈風の隙間を〉の表現を得たことにより、初蝶との取り合わせを新鮮なものとした。
山崎氏の句、同じ蝶から、「冬の蝶」を抽出した。蝶には蛹で越冬するものや冬を生き延びて春先に産卵する蝶もいる。この蝶はいまわに近い時期の蝶であろう。最後の力を振り絞って飛ぶ様は〈飛ぶための息〉があることを認識した句である。そして〈もう一度〉を冒頭に据えたことにより、冬蝶の一生に思いを馳せている。
大氷柱地につくまでのおのが意志 松本 旭
(「橘」[松本旭主宰]四月号)
この四月号が創刊四百号記念号となっている。松本氏は師系を加藤楸邨、角川源義として、昭和五十三年に「橘」を創刊され、三十三年あまりの四百号である。
掲出句、最近は地上まで伸びる氷柱は少なくなったが、この句は氷柱を凝視した句である。氷柱は成長するに従い、地上を目差し、さらに大氷柱ともなると、意志を持った生き物に変身する。あたかも地上に届くまで自らの意志で成長するようである。〈地につくまで〉の刻が生き物となっている時間である。その時間を〈おのが意志〉と名詞止めにしたことにより、力強さが備わった句となった。
生きるとは遺さるること浮寝鳥 角川 春樹
ゆづり葉や生きるといふは遺さるる 〃
(「河」[角川春樹主宰]四月号)
角川氏は俳句を「魂の一行詩」とする信念で、毎月百句以上詠んでいるが、四月号の百四十七句の多さには驚く。今月はその大半を森澄雄の句の引用によって澄雄との存問を詠んでいる。
一句目は〈白をもて一つ年とる浮鷗 澄雄〉を引用して詠んだもので、〈生きるとは遺さるること〉と感じることは澄雄との交流から得た心情である。澄雄は亡くなったが、自分はこうして生きている。ということは自分が澄雄の心を引き継いでいきたいと気持を持った哀悼の句でもある。「浮寝鳥」は澄雄が愛して止まなかった琵琶湖を重ね合わせた象徴であろう。
二句目は〈雪山の照り楪も橙も 澄雄〉を引用して詠んでおり、この句は「ゆづり葉」は新しい葉が生長してから、古い葉が落ちることから、世代を譲るという目出度い新年の季語でもあるが、この句は澄雄から受け継いだものを持って生かされ、さらに次の世代へ引き継いでいく決意の気持を詠んだものであると解釈した。即ち一句目は哀悼、二句目は決意を詠んでいる。このように四月号はすべて角川氏が心の中で澄雄と対話しているまさに一行詩である。
遠目にも木々の針めく斑雪山 齋藤 朗笛
(「白桃」[齋藤朗笛主宰]四月号)
齋藤氏は常に雑詠欄の最後尾に自らの俳句を掲載している。齋藤氏ならではの心配りであろうか。掲出句、冬から春となるに従い、雪山の様相も変化してくる。白一色の雪嶺から斑雪山に変わるにつれ、杉のような高い木が見え始めてきたことを〈木々の針めく〉と把握した比喩が作者の本意であろう。しかも遠くても針らしきものをはっきりと見届けることが出来たことがこの句の眼目である。〈遠目にも〉という場面設定と〈木々の針めく〉という写生に無駄がない。
痛々し雪の老桜杖あまた 松村 昌弘
(「天弓」[松村昌弘主宰]四月号)
地元の俳人として薄墨桜は常に詠む対象であり、俳句工房の一つであろう。 掲出句は冬の老桜である。葉をすっかり落とした老桜は支柱がよく見え、それを杖と認識した。その老桜がさらに雪まで支えている。まさに〈痛々し〉の措辞が実感であろう。薄墨桜が咲く春は花の美しさに目を奪われ、支柱は目に入らぬがこの句は冬でしか実感できない句である。
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現代俳句評 (2011年5月号)
大綿の昇りつくせし空の青 斎藤 夏風
(「屋根」[斎藤夏風主宰]二月号)
綿虫の風まかせとも飛べるとも 岩田 由美
(同 一月号)
今年の第五十回俳人協会賞は選考委員全員一致で斎藤氏の『辻俳諧』に決定した。選考委員である栗田主宰は「確かな描写による叙情的な作品が精選されて収められていて、特に奥様を亡くされた後の句に、ふくらみができたとは委員一致した意見である。」と発言しており、確かな写生、無理のない配合、自分を淡々と詠む姿勢が評価された。
私も『辻俳諧』を読ませて頂き、〈何故の黒髪の艶百合の花〉〈母の日の妻が磯辺の夢枕〉など奥様への敬慕に感動した。
斎藤氏の掲出句、綿虫の特性が的確に詠まれている。作者は綿虫が高く飛んでいるのを見て、〈昇りつくせし〉と綿虫が飛んだ終点は空の青に吸い込まれたところであるとの把握が簡潔に詠まれ、的確な写生である。
また今年の俳人協会新人賞も同じ「屋根」の岩田氏の『花束』に決定した。選考委員の発言を見ると、「写生の眼がしっかりしており、季語の捉え方も巧みである。」「群を抜いた技術力、構成力で秀句が揃っている。」などと異論のない受賞と言えよう。
私の感想として、どの句も写生に徹した句でありながら深く、緻密な表現に突き進んでいると思った。〈合歓に蝶一度は閉ぢし翅広げ〉〈水澄みて長き藻のそのこはれさう〉〈めつむればくまなく春の水の色〉など写生が深く、物の本質に迫っている句に惹かれた。
岩田氏の掲出句、同じ綿虫の句を抽出してみた。この句はまさに捉えどころのない綿虫の本質を突いている。確かに綿虫はこのような印象を受けるが、〈風まかせとも飛べるとも〉という措辞の発見は写生を深めることによって得られるものである。これ以外には綿虫の生態は言いようのない佳句である。
わが跣小さくなりたり川の中 小澤 實
(「澤」[小澤實主宰]二月号)
小澤氏の句、一読して発見の句であると、わが意を得たりとの感想を持った。作者は山奥の小流れに跣で入ったのであろう。物理的には水の屈折率によって、川の中の足は浮いて見える。しかし作者は自分の跣を見て、小さくなったと実感したのである。そしてこの川は透きとおっているからこそこのような実感につながるのである。単純さの中に俳諧的な真実を発見した句である。
霜強し柱は柱頼りゐる 鈴木 鷹夫
(「門」[鈴木鷹夫主宰]二月号)
掲出句、霜柱に一点集中して詠んでいる。〈柱は柱頼りゐる〉という表現を得て霜柱の強さの本質を詠んだ。霜柱はよく見ると、無数の柱が林立している。それぞれの柱ははかなく溶けやすいものであるが、その林立に霜柱の強さを感じたのである。〈頼りゐる〉の擬人化が適切である。一句一章の句は言葉の発見によって感動を強くする。
かりがねや送るとは立ち尽くすこと 伊藤 政美
(「菜の花」[伊藤政美主宰]二月号)
最近、東海地方ではほとんど雁を見なくなった。環境悪化と温暖化の影響により越冬地は次第に北の地方に移っているのだろう。
掲出句、上五の〈かりがねや〉は二物配合の切れとして考えることも出来るが、私は強調の「や」として鑑賞した。かりがねが帰るときの思いは〈送るとは立ち尽くすこと〉と実感し、さらに立ち尽くして見送っている自分の心情に「送るとは」何であるかを考え、かりがねに託して見送ることの哀切を詠んでいる。
曼珠沙華枯山水に飛火して 鈴木 貞雄
秋灯下いまはの汝に聖書読む 麻生 青欅
(「若葉」[鈴木貞雄主宰]二月号)
鈴木氏の句、早雲寺のまえがきがある。この日本庭園で詠んだのであろう。枯山水の庭は水を使わないで石組みで造る庭である。ただ作者は庭園に本来あるはずのない曼珠沙華を見つけた。それは曼珠沙華の赤が他から庭園に燃え移ったと捉えた。〈飛火して〉という飛躍した写生がこの句を華やかなものにした。
麻生氏の句、ご子息を亡くされたときの句で、私はいたく感動した。ご子息を前にして〈いまはの汝に〉とはなかなか詠めない。ご子息が安らかな眠りに入る前にせめて聖書の一節を読まれたのは信仰と父親のせつない気持からであろう。同時作の〈初師選載りしが遺句や秋灯下〉を見るとご子息も投句を始めたばかりで、初入選が遺句とはまさに絶唱としか言いようのない句である。これに対して鈴木氏が心の籠もったねんごろな鑑賞を行っている。
冬うらら駄菓子のごとく薬出す 服部鹿頭矢
(「鯱」[服部鹿頭矢主宰]二月号)
私も持病を持っており、毎月薬を溢れるほど貰ってくる。特に十二月ともなると、年末年始をはさむため、もっと多くなる。掲出句、私の体験を共有させて頂いた句である。〈駄菓子のごとく〉の比喩に病を吹き飛ばす俳諧味を感じた。季語の「冬うらら」の明るさにも救われる。
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露草の青む影より稚鯉かな 田島 和生
斧たたみ孕蟷螂産まんとす 林 晴美
(「雉」[田島和生主宰]十二月号)
田島氏の句、色彩感覚の優れた句である。露草と稚鯉の色の取り合わせであるが、露草の影が青むと認識し、さらにその青い影から稚鯉の色が出てきた色彩の写生眼が確かである。田島氏は「雉」十二月号の「風鳥園雑記」でかって沢木欣一先師が発言された「一点主義」の重要性を述べている。先師の言葉を借りて、「俳句で二物配合と言われてきたが、最初は一点主義がよい。」と述べ、そしてそのためには一つのものの凝視から始まると結論づけている。掲出句は露草の色を凝視し続けることにより、〈青む影より〉の措辞を得たのではないか。
林氏の句、この句もまさに一点主義を実践した句である。作者は今まさに蟷螂が卵を産もうとしている現場を見ている。そして蟷螂の行動を凝視することによって〈斧たたみ〉という言葉を得て、引き締まった句となった。「雉」を創刊された林徹氏の〈鶏頭の影地に倒れ壁に立つ 徹〉のような凝視が「雉」には脈々と引き継がれているのであろう。
外套をまとひ己を消しにけり 鷹羽 狩行
埋み火のごとく沈めし思ひかな 高崎 武義
(「狩」[鷹羽狩行主宰]十二月号)
鷹羽氏の句、外観だけを見て人物を評する社会に対してささやかなアイロニーを込めた句のように思えた。一般に「体は人を表す」と言われるように服装から人を判断することがある。そしてこの己とは、その人の動作、人物の特徴、さらに人柄まで含んだものであろう。それが外套を一枚まとうことによりこれらの己を消し去ることが出来るトリックを見るような句で、私達が無意識に人を判断する常識を指摘されたような気がした。
高崎氏の句、自分自身の内面的な思いを静かに詠んでいるように思えるし、自分の内面的な思いを読者に読み取らせようとしているようにも思える。そんなことを考えさせられたキーワードは〈埋み火のごとく沈めし〉である。火鉢などの灰に埋めた炭火は外面からは何も見えない。しかしその内面には激つような熱い炭火がある。作者の持っている思いは読者には分からないが、作者の激しくあるが、じっと灰に閉じ込めて外面には出さない思いを詠んだ心情性の強い句である。
海苔篊の水路整然秋夕焼 斎藤 夏風
(「屋根」[斎藤夏風主宰]十二月号)
海苔の養殖は秋から春にかけて行われ、秋になると、一斉に竹篊を挿した景色が見られる。この句、作者は今まで何もない海に忽然と海苔篊が現れるのを見た。その海苔篊により海に整然とした水路が出来上がったと認識した。海苔篊の列を水路であると断定したことがこの句の眼目であり、夕焼に照らされた水路が海の主役になった瞬間である。
黒毛虫全肢の揃ひ道よぎる 岡田 日郎
(「山火」[岡田日郎主宰]十二月号)
掲出句は渡良瀬湧水地での一句である。ここは足尾銅山鉱毒事件以来、長年の努力により今やラムサール条約指定湿原の候補にも上がっており、絶滅危惧種が数十種以上生息している貴重な湿原である。
ここで作者は黒い毛虫が野道を横切っているのに目をとめたが、この句のポイントは〈全肢の揃ひ〉である。毛虫の脚一本一本を観察し、すべての脚が揃っていることを発見した。中七の写生が黒毛虫の存在感を支えた。徹底写生を信念としている岡田氏らしい視点が見える。
水澄むや生きて小さきものばかり 雨宮きぬよ
(「百磴」[雨宮きぬよ主宰]十二月号)
生物多様性の側面の一つに食物連鎖による生態系の維持がある。里山の水田、野川など豊かな水系には、必ず生き物がおり、そこにはどんなに小さくてもそれぞれの営みがある。この句、作者は野川を歩いており、そこにはそれぞれ小さな生き物がいることに思い立った。〈生きて小さきものばかり〉のとおりどんな小さな生き物もこの地球を支えている愛しい生物である。そして「水澄む」の季語に、いつまでもこの地球の生態系が維持されてほしいとのメッセージが伝わってきた。
捨案山子のの字の目もて空仰ぐ 柏原 眠雨
(「きたごち」[柏原眠雨主宰]十二月号)
最近の案山子は結構モダンなものが多くなり、日本人の遊び心が見えてくる。ただこの句の案山子は昔ながらの「へのへの文字」だけを書いたシンプルなものであろう。作者は、稲刈りも終わり用済みとなった案山子を発見した。ただこの案山子の〈のの字の目〉は今なお生きているように思い、空を仰いでいる案山子は何を見つめ、何を考えているのだろうかと、愛情を持って詠まれたことに共感を得た。
掃苔の一人きてゐて一人のみ 岬 雪夫
(「天衣」[岬雪夫主宰]十二月号)
掃苔は盂蘭盆の墓参のことである。句意は極めて明瞭であるが、〈一人きてゐて一人のみ〉が感動の中心である。作者は墓地に来て、自分一人しかいないことに気付いた。「一人」の重ね言葉により、墓地での一人だけの静けさに、墓の人と対話していると解釈した。墓地が静かであるからこそ、墓の人に問いかけ、対話が出来るのである。
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草虱身体にいつぱい男の子 滝沢伊代次
立話草刈鎌を振りながら 大坪 景章
(「万象」[大坪景章主宰]十月号)
「万象」名誉主宰の滝沢氏が十月五日に亡くなられた訃報は突然だった。「風」の大先輩で、全国俳句大会などで会場いっぱいに響く独特の名乗りに懐かしさを感じる。生前の骨太で男盛りの句に惹かれていた。第一句集『大年』の序文で沢木欣一先師は「伊代次俳句は正直に本音を吐くブロークンな句風であるが、その俳句の骨法は今日にいたるまでいささかも崩れず無技巧の技巧といった境に入っていると言ってよい。」と発言しているように、滝沢氏の常に本音を吐く俳句は終生変わることがなかった。
滝沢氏の掲出句、〈稲刈のあとは手分けで蝗取り〉などの句と並んでおり、昔懐かしい里山の回想句であろう。〈身体にいつぱい〉、草虱をつけて蝗取りに夢中になっている滝沢少年の顔が浮かんでくる。 合掌
大坪氏の句、農作業の一こまの風景である。炎暑の中の重労働における束の間の立話である。この立話の相手はごく親しい知人であることは〈草刈鎌を振りながら〉の写生に作業を中断することなく、立話している情景がよく見える句である。
掠れ出しままのファックス熱帯夜 千田 一路
瀬の音のあるかなしかや螢の火 石黒 哲夫
(「風港」[千田一路主宰]十月号)
それにしても今年の夏は耐え難い暑さであった。千田氏の句、あの暑苦しい夜に届いたファックスが掠れたままで読みづらいことこの上ない。このためますます熱帯夜の実感につながってくる。現代生活において近年ことに日常語化した熱帯夜を象徴する句である。しかし今、地球温暖化の進行は年々ひどくなっている。この句は地球を憂う警告の句でもある。
石黒氏の句、螢の火を追って随分と川奥に入ってきたのであろう。その螢火が最もよく見えるところは川瀬の音がかすかに聞こえるほどの奥であることに気付いた。〈あるかなしかや〉の中七に仮名を配置して、柔らかさと繊細さを強調したベテランの俳句である。
暑きこと言はず涼しきことを言ふ 後藤比奈夫
新涼といひて涼しさとは違ふ 後藤 立夫
(「諷詠」[後藤比奈夫主宰]十月号)
今年の各結社誌を読むと随分と暑さを詠んだ句に出会った。比奈夫氏の句、暑さの中にいてもいつも飄々とした詠みぶりに感心した。今年の夏が特に暑かったことは誰にも分かっている。作者はそれを実感しながらせめて涼しさを探そうという気持が読み取れる。〈暑きこと言はず〉から〈涼しさを言ふ〉へと重ね言葉により、作者の自若たる態度が見えてくる。
立夫氏の句、比奈夫氏の句と同様な感想を持った。「新涼」は秋の季語、「涼しさ」は夏の季語であるが、作者は折しも「新涼」の時期となり、気分一新して「新涼」の句を詠もうと思った。ところがどうもこの「新涼」は「涼しさ」とは違う何かが含まれていると感じた。「新涼」と「涼しさ」の微妙なニュアンスの違いを発見した句である。
原爆忌時かけ石は地になじむ 高橋 克郎
(「松籟」[高橋克郎主宰]十月号)
高橋氏は終戦を実体験された世代である。そういう氏が原爆忌を詠むとすればこういう心理的な句になるだろう。この句の石は何かいわれのある大きな石かもしれないが、そういう大石であっても時代が移るにつれ、次第に地になじんでしまうものである。そういう感慨を「原爆忌」の日に持ったのである。それは「原爆忌」も石が地になじむように風化していくものだろうかとの思いに至る。しかし原爆忌だけは永久に忘れてはならないという反語的表現に作者の意志が見えてくる句である。
曲はヘンデル待宵の湖上船 辻田 克巳
(「幡」[辻田克巳主宰]十月号)
この湖上船は琵琶湖であろうか。そうではなくて単に待宵の夜のクルージングかもしれない。それは作者が乗った船でヘンデルの曲が流されていたことで分かる。この曲は「水上の音楽」であろう。ホルンで始まる明るい曲であり、喜びに満ちた曲である。〈曲はヘンデル〉とまず感動の中心を冒頭の中七に持ってきたところに作者の心の昂ぶりが伝わってくる。名月を翌日に控えた待宵の夜はさぞかし楽しいひとときであったことであろう。
文机がひとつ遺影の夏座敷 鳥井 保和
(「星雲」[鳥井保和主宰]十月号)
鳥井氏は誓子山脈につながる方であるが、第二句集『吃水』のあとがきで俳句中断時に飯田龍太の季感、抒情、風土に根ざした自然風詠に感銘を受けたと述べられている。そして「星雲」は平成二十年に創刊された。掲出句は誓子ゆずりの硬質な即物具象を経た後の季感、抒情が豊かな句である。「夏座敷」の季語からどこかの家を訪問された描写であろう。その夏座敷にはたった一つの文机があるだけで、作者はそこにある遺影と対面している。そしてこの句を何度も読み返しているうちに、作者と遺影の人物との対話が静かに聞こえてくるしみじみとした味わいのある句である。
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