栗田やすし句集『霜華』鑑賞(平成19年)

「伊吹嶺」07年1月号より栗田やすし句集『霜華』の1句鑑賞をさせていただくことになった。毎月1句づつであるので、歩みはのろいが毎月好きな句を鑑賞させていただくこととしたい。皆さんのご意見をお寄せ下さい。

仏桑花生き延びて修羅語りつぐ 07年12月号
欣一亡し夕日まみれの師走富士 07年11月号
父の顔いつか師となる冬の夢 07年10月号
紫苑咲き初むと妻言ふ綾子の忌 07年9月号
抽斗に千枚通し子規忌来る 07年8月号
紙干すや雪に行き来の影落とし 07年7月号
炎天に引きし母の手もうあらず 07年6月号
目つむれば綾子師の声かきつばた 07年5月号
喪に服す妻と暮春の海を見に 07年4月号
旅カバン軽し花野にひとりきし 07年3月号
妻の愚痴聞き流しゐる漱石忌 07年2月号
大いなる天壇の空小鳥来る 07年1月号

  仏桑花生き延びて修羅語りつぐ(平成10)

「伊吹嶺」07年12月号転載

 これまでの『霜華』一句鑑賞の中で、この句集の位置づけを考えると、何か忘れ物をして来たような気がする。『霜華』のあとがきには「沢木・細見両先生と父母の霊にささげたい」とあるので基本テーマは明確である。ただこれまで『霜華』鑑賞で、誰も触れなかったテーマに、沖縄との関わりがある。『沖縄吟遊集』(沢木欣一)への共感に加え、ご長男の沖縄居住から、沖縄との関わりが深まっていることに注目すべきであった。沖縄は温暖で風光明媚な観光地としての一面がある一方、今、米軍基地問題、沖縄戦での自決に関わる教科書問題に揺れている。
 掲出句は、沖縄への重い歴史を「修羅」という抽象語で〈生き延びて修羅語りつぐ〉と詠んでいる。〈仏桑花〉という重い季語を選び、〈生き延びて〉という現実から私は自決問題に思いあたる。先生は沖縄における歴史の重みを実感しているのである。ご長男を通じ、『霜華』以降、沖縄との関わりは一層深くなっているようだ。久米島での句の中に

  甘藷畑に痛恨之碑や旱梅雨  平成16

 の句があることも記憶にとどめておきたい

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 欣一亡し夕日まみれの師走富士(平成13)

「伊吹嶺」07年11月号転載

 この年、沢木欣一先生が亡くなられた。栗田先生はよく富士山を題材に詠んでいるが、〈寒の富士見る病棟の十二階〉など沢木先生の思い出が富士と重なることは、これらから確認できる。先生に富士の句が多いのは昭和五十六年、三島に新居を構えられてからだろうか。〈連翹や一日富士の裾かすむ〉の句が転居直後の句である。翌年には沢木先生夫妻が先生の新居を訪れている。
 また沢木先生は句集の題名となった〈赤富士の胸乳ゆたかに麦の秋〉など昭和四十六年に富士の句三十句を発表されている。
 掲出句はこれら沢木先生と共通の思い出の富士を最後の別れの句として詠んでいる。いきなり〈欣一亡し〉と哀しみの言葉を述べ、〈夕日まみれの師走富士〉と夏の赤富士とは違った、冬の沈鬱な赤色を対比させて、哀しみを師弟共通の富士で詠んでいる。
 こういう一連の流れを踏まえて、掲出句は三島時代の思い出、新宿JR病院から沢木先生と一緒に寒富士を見た思い出など富士を巡る回想の一環として、沢木先生への思い出の締めくくりとしている。

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 父の顔いつか師となる冬の夢(平成13)

「伊吹嶺」07年10月号転載

 夢の記憶はすぐ消えてしまう人もいれば、鮮明に残っている人もいるという。夢は脳のひだの奥に刻み込まれた記憶を呼び起こすのだろうか。この句、写真でしか見たことのない父に夢の中で会った。その父がいつの間にか沢木欣一師になったという夢の記憶を句にしたものである。ではこの句は父上を詠まれた句であろうか、また沢木先生を詠まれた句であろうか。この結論を考える前に、師である沢木先生には夢の句が多いことがすぐ思い出される。沢木先生の夢の句には、上官を殴打したり、悪漢や魔女に襲われたりする非現実的な夢に作者の深淵にある怒りから俳諧味を誘うものまでいろいろある。その中で
  終戦日ちちはは夢に現はれし 欣一
  秋深し故人ばかりが夢に現れ 欣一

 のような亡き人と会った夢の句もあることに着目したい。栗田先生はこれらの句を踏まえていたかどうか別にして、夢に見た父の顔、師の顔などの亡き人が心の深層の中から引き出されたものだろう。そういう意味で掲出句の疑問の答は、父とも慕っていた沢木師も含めて、父と師どちらも同等な位置づけの父恋いの句といえるだろう。

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 紫苑咲き初むと妻言ふ綾子の忌(平成11)

「伊吹嶺」07年9月号転載

 この句は綾子先生が亡くなられて二年目の綾子忌の句である。句意は明瞭で、先生の自宅の庭であろうか、夫婦の日常会話の断片をそのまま句にしている。この句は句またがりの形をなしているが、まず〈紫苑咲き初むと〉を一気に読み下して、おもむろに〈妻言ふ〉と小休止的な言葉を続ける。そして紫苑と綾子忌をつなげている。この句には綾子先生のあまりに有名な
   
山晴れが紫苑きるにもひゞくほど (昭和13
の句を踏まえている。私はこの時期いつも明日香の棚田に咲く色濃い紫苑を思い出す。
 一般に私達が綾子忌の句を詠むときは、他に九月の季語を入れて詠むのが普通である。
 先生は日頃、綾子忌、欣一忌がもっと独立して、季語としての位置づけを確保して、他の季語を使わなくても認知されるような句を世間に出していくことが大事であるとおっしゃっている。そのためにも私達は綾子忌、欣一忌に心をこめて真に感動を与える句を作り続けていくことが責務であると考えている。
 今年も私達「伊吹嶺」の連衆にとって、綾子先生の思い出につながる犬山の綾子句碑を訪れてみたい。

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  抽斗に千枚通し子規忌来る(平成10)

「伊吹嶺」07年8月号転載

 先生の句集、特に『霜華』には子規を詠んだ句は多い。この句、先生の抽斗に入っているいろいろな物の中で、千枚通しに着目している。その千枚通しを見て、ああ今日は子規忌だったという感慨を詠んでいる句である。
 子規は「俳句分類」という膨大な作業の中で、抜き書きした俳句を束ねるため千枚通しを使っている。子規は病床にあって、一時俳句分類を止めた時

 余もこの頃「錐錆を生ず」といふ嘆を起こした。この錐といふのは千枚通しの丈夫な錐であって・・・それが今日手にとって見たところが、全く錆びてしまって・・・「錐に錆を生ず」といふ嘆を起こさざるを得ない。(『病牀六尺』)

 と千枚通しとの関わりを述べている。また先生も中日俳句教室で子規は千枚通しで自殺を図ったらどうなるかと考えていたというエピソードも紹介なさっている。
 このように子規と千枚通しの関係を知っている先生は、千枚通しに子規忌の思いを込めた句を作ったのである。簡明な表現であるが、ものに触発されて忌日を詠むという一つのお手本となっている。

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 紙干すや雪に行き来の影落とし(平成8年)

「伊吹嶺」07年7月号転載

 「伊吹嶺」平成1511月号で句集『霜華』を各氏が評しているが、私は清水弓月氏の次の評に注目した。

 作者の俳句世界の展開を予見させるものとして次の二句が心に残った。(と、そのうちの一句に掲出句を上げ)〈雪に行き来〉の淡い人影のひそけさ、この幽邃な詩境こそ、やすし俳句の底を流れる独自の抒情ではなかったかと考えられる。

 長年、先生と親交の深い弓月氏ならではの慧眼だと思う。この句は漉き場から干場までの紙干し作業を写生したものだが、〈行き来の影落とし〉と影に着目した写生に静かさを感じる。
 先生の自註句集では、最も初期の紙漉の句として〈紙を漉く紙とならざるもの滴らし 昭和43年〉を残しておられる。まさにこの時代の硬質な写生である。以来三十年近く経て、こんなに静謐な句境にたどり着いたことに再認識した。
 この句が先生の今後の俳句世界の展開を予見させる句だとすると、今後ともこういう句を見せていただきたいし、こういう先生の句境を学んでいきたい。

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  炎天に引きし母の手もうあらず(平成14)

「伊吹嶺」07年6月号転載

 初出は「俳句」平成十四年九月号の「青伊吹」十六句の最後の句。先生はこの年の六月に母上を亡くされた。先生の二歳の時に父上が亡くなられて以来、母上は二人のご子息を育て上げられ、そのご苦労は図りしれない。
 この一連の「青伊吹」を読むと、母上を亡くされたときの悲しみが即物的な描写の中からも痛切に伝わってくる。掲出句はもう母と一緒に出かけることはないとの感慨句であるが、〈母の手もうあらず〉には絶唱とも言うべき心を前面に出している。そしてこの〈炎天に引きし〉には、次の句が関係してくる。
  母の手を引き炎天に立ちどまる (昭和53)
 この句は金華山の護国神社へご一緒に出かけられた時の句で、この二句を比較することにより、掲出句は以前の母上の情景が走馬燈のように巡り、これが〈母の手もうあらず〉という表現になったものと思う。また同時作の〈夕焼けを母と愛でたる夢の中〉のように、母とはもう夢の中でしか会うことが出来ないとの思いから、掲出句を最後に据えることによって、母上への惜別の句になったと思う。

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 目つむれば綾子師の声かきつばた(平成12)

「伊吹嶺」07年5月号転載

 この句、「伊吹嶺」同人句会として久し振りに小堤西池へ吟行に出かけた折に作られた句である。「かきつばた」と言えば細見綾子先生を抜きにしては語れない。綾子先生は昭和60年に愛知俳句鍛錬大会に参加されて、〈天然の風吹きゐたりかきつばた 綾子〉と詠まれている。以来平成4年、平成5年と小堤西池を訪れておられる。
 掲出句の句意は極めて平明で、この池に来て立った時綾子先生の声が聞こえたのであろう。それを〈目つむれば〉と表現することにより、さらに綾子先生のお姿まで思い浮かべられたことと思う。私は池のほとりにしゃがんで、栗田先生に話しかけていらっしゃる綾子先生を想像する。このような情景は「伊吹嶺」メンバーの共通の思い出になっているのではないか。
 丁度平成4,5年頃より栗田先生はこの池に綾子先生の句碑を建立することが願いであった。その願いは最終的には、昨年犬山に句碑建立することによって叶えられた。この句碑に立つと、また綾子先生の声が聞こえてくるのではなかろうか。

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喪に服す妻と暮春の海を見に(平成13)

「伊吹嶺」07年4月号転載

句集『霜華』の期間は、細見綾子先生、沢木欣一先を亡くされ、家庭内では養父、母上を亡くされた八年間であった。あとがきで先生は『霜華』を両先生と父母の霊に捧げたいとおっしゃっているが、この句はせつ子さんが父上を亡くされた時の服喪期間の句である。父上を亡くされた妻を一日でもねぎらいに海に出かけたのであろう。まず〈喪に服す〉と言いきり、ともに喪に服している心境を述べ、〈妻と暮春の海を見に〉の中七、下五で妻と一緒に海を見に行くという悲しみを分かち合うための具体的な行動に託して具象化している。ここにも即物具象の基本に添って、一句を構成していることが読み取れる。この時期、せつ子さんは<父の喪に籠もりて春も終りけり>を作られており、この二句はよく呼応しており、両句により夫婦の気持ちが通い合っていることが分かる。
 同様に〈花の昼眠るごとくに父逝けり やすし〉と〈桜見る約束反古に父逝けり せつ子〉の両句もお二人が同じ対象、同じ気持で詠まれてこれも気持が通い合っていることが分かる。

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 旅カバン軽し花野にひとりきし(平成9年)

「伊吹嶺」07年3月号転載

 初出は「風」平成10年1月号に特別作品15句として発表。師である細見綾子先生が亡くなられた平成9年の秋に秋吉台に旅行した折の一句。この句、淡々とした詠みぶりで句意は極めて簡明である。ただ旅カバンを「軽し」と感じ、「ひとりきし」と言いとめたところに先生の静かな哀しみが伝わってくる。一人旅は必然的にものを思い、また師を思う時間があったのだろう。この句は一見はなやかで、明るい花野に来て詠んだ単なる写生句と見過ごしがちであるが、この「軽し」「ひとりきし」という措辞には表面的には出ない綾子師への思いが込められていると思う。
 それはこの旅の一連の句を読むと、後出される〈師を恋ふや花野浄土の明るさに〉の高揚した師への思いにつながってくるからである。場所の言い方も「花野」から「花野浄土」という一種の昇華された心象風景の中で師を偲び、師を見たのではなかろうか。
 即ち掲出句は後出の「花野浄土」の句の先駆け的に、あくまで現実の花野の中に哀しみ、恋しさを秘めた句であったことに気づく。

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 妻の愚痴聞き流しゐる漱石忌 (平成10)                         

「伊吹嶺」07年2月号転載

 漱石忌は十二月九日。句意は一読明解で妻(せつ子さん)が愚痴をこぼしている。その愚痴を聞きながら「そう言えば今日は漱石忌だった。」と心の中で呟いているという句意だ。ここで注目したいのは〈妻の愚痴〉に対して〈漱石忌〉を持ってきた必然性である。
 先生は中日俳句教室で「漱石の妻(鏡子)は悪妻ということになっているが、本当にそうなのか。漱石邸はいつも訪問客で賑わっていた。もし本当に悪妻ならば、客が寄りつくはずがない。奥さんのもてなしがよいから客が寄ってくるのである。」と述べられている。
 こういう背景を踏まえてこの句をもう一度読んでみると妻の愚痴もせつ子さんの独り言のようなほほえましい程度であり、先生はそれに深入りすることなく、軽く聞き流しているだけであろう。どこの家庭にもある中年夫婦の穏やかな一景であると解釈できる。
 ちなみに小説『坊ちゃん』の主人公が慕っていた女中・キヨは鏡子の本名であることを知れば、漱石は鏡子を愛していた一つの証左でなかろうかと思う。  

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 大いなる天壇の空小鳥来る (平成8年)

「伊吹嶺」07年1月号転載

 句集『霜華』の巻頭句。自註句集には「俳人協会の日中俳句、漢俳交流会に参加したときの句。」とある。先生には旧満州ハイラルで生まれたことが言わばDNAとして刻み込まれていると思う。誕生直後の記憶があるなしに関係なく、中国は自分の生誕の地であることの意識が訪中の一連の句の一つの前提条件になっているのではないか。
 天壇とは「皇帝が都城の南の郊外で冬至の日に天帝をまつった円形の祭壇」とあるが、北京の天壇の地に着いたとき、まず作者は、自分が生を受けた国にようやく立ったという気持を〈大いなる天壇の空〉と受け止め、感慨深い上五、中七としている。そこに〈小鳥来る〉と極めてやさしい普遍的な季語を配することにより天壇の情景を具体的に浮かばせている。感慨深い地でありながら、平明な写生により作者の心の高ぶりをさりげなく詠んでいる。
 私はまだ中国に行ったことはないが、このような広々とした風景の中に立ってみたいと思う。