俳句についての独り言(平成25年)
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現代俳句評(11月号) | 2013.11.1 |
現代俳句評(9月号) | 2013.9.1 |
環境と俳句 | 2013.7.1 |
現代俳句評(7月号) | 2013.7.1 |
現代俳句評(5月号) | 2013.5.1 |
いぶきネットの四季 (西行庵) |
2013.5.1 |
現代俳句評(3月号) | 2013.3.1 |
現代俳句評(1月号) | 2013.1.1 |
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あめんばう白雲を引き寄せて跳ぶ 大串 章
(「百鳥」[大串章主宰]八月号)
あめんぼうの動きを見ていると、表面張力の自然の妙を感じさせる。そして水面に映っているものに着目すると詩が生まれる。掲句は水面に映っている白雲を取り合わせることにより、あめんぼうの新たな役割を発見した句である。あめんぼうがひと跳びする度に映っている白雲を崩し、静止することにより、白雲を浮かび上がらせる。〈白雲を引き寄せて〉の擬人化によりあめんぼうの小さな存在が巨大な雲を操ることにつながる。これも自然の妙であろうか。
(「青山」[山﨑ひさを主宰]八月号)
掲句、私の実体験を思い出させてくれる句である。初めての山を登ったり、一人登山の場合は登山地図は必携品で、一般に折りたたんでケースに入れて登る。そして別れ道、見慣れないけもの道などに出くわした時は、必ず登山地図を広げて確認する。開いては畳んでいるうちに、地図の折れ目が摩り切れて、その部分だけが読めなくなる。〈折り山の摩り切れてゐる〉から使い込んだ地図が見え、これは登山者に共通する体験を写生したものである。このような折り目に着目した地図は登山者愛用の二万五千分の一の地図がふさわしい。
(「山火」[岡田日郎主宰]八月号)
雪渓の句を詠むなら岡田氏をおいて他にはないくらい山の俳句を詠むことに徹底している。掲句、雪渓を丹念に詠むことにより臨場感がよく出ている。登山路が大雪渓に閉ざされる状態が〈張り出し塞ぎ〉と動詞を重ねて座五に〈登路なし〉と用言止めにしている。いわゆる用言を三つ重ねることにより、雪渓という自然の驚異を強調している。これは次句にある〈斜めまた斜め大雪渓攀づる〉という重ね言葉による雪渓を強調しているのと同じである。
坂登ればまた陽炎の坂のあり 山崎 祐子
(「りいの」[檜山哲彦主宰]八月号)
前句と同様に、山岳俳句を詠むことはその現地ならでは特徴を持ったものを詠むか、どの山であれ一句の中に山の真理を詠むことが必要であろう。檜山氏の句、尖った嶺から槍ヶ岳のような山を想像した。〈雲海に嶺とがりけり〉から、山頂から流れている雲海を見ることは天空に立つ思いがする。ただ掲句の〈凪わたる〉の措辞は延々と広がっている雲海が一瞬時間が止まったと認識した時を捉えたのである。水平視線の雲海に垂直視線の嶺の構成が山岳俳句らしさを際立たせている。
山崎氏の句、不思議な句である。坂を登っている先が陽炎で揺らいで見えることはよくある。ただ坂を登り切った先にまた〈陽炎の坂〉があることに戸惑っているのである。現実には、さらに坂が延びているかもしれない。しかし〈陽炎の坂〉と断定したことにより、現実には見えないが、その先に陽炎が坂をなしているという心理的な坂として鑑賞した。
(「澤」[小澤實主宰]七月号)
よく俳句では即物的な二物照合の句が多く見られる。掲句は二物照合を動詞で表現したいわば「二用言照合」とも言うべき句で、作者がこのように作らざるを得ない心情に共感した。句意は極めて明解で、車中での情景であろうか、帽子を脱いで、おもむろ駅弁の紐をほどいたというもので、〈脱ぐ〉〈ほどく〉の全く別な動作の取り合わせに俳句の詩情を求めようとする作者の意欲を感じた。
(「菜の花」[伊藤政美主宰]八月号)
捩花は古来より日本人に愛されてきた野草である。この花は蘭の一種で、この小さな螺旋状の花を見ていると、造化の神秘さを感じざるを得ない。掲句、捩花の捩れ具合に感嘆して見ている。一方、地面に映っている影に着目すると、捩れ具合は見えず、真っ直ぐな影しか見えない。〈よくねぢれ〉と〈影まつすぐに〉の正反対の発見から捩花の生態の真実を写生した句となった。
(「一葦」[島谷征良主宰]七・八月号)
掲句、「広島」の前書きがある。平和公園にある青桐は被爆を乗り越えて巨木となり、毎年緑の茂みを提供してくれる。被爆の証しとしての一種の象徴樹である。〈緑蔭なすにみな無口〉がこの句の眼目である。大樹となった青桐であろうとも、この木の前に立てば誰もが被爆のことを思わずにはいられない。作者は本来憩いの場を提供してくれる緑蔭の中にいて、誰も無口であることに気づいたのである。その偽らない心情を〈無口〉と詠み、声高でなくても平和を祈る気持ちは変わらない。福島原発の事故を思うにつけ、広島の被爆体験を無にしてはいけない。
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遺影より声の出さうな夜の朧 鈴木 節子
(「門」[鈴木節子主宰]六月号)
鈴木鷹夫氏が四月に逝去された。洒脱と人間味に溢れた句には多くの人から愛されてきた。そしてこの五月号では第六句集『カチカチ山』の特集が組まれている。この中で評論家坂口昌弘氏は次のように感想を述べている。
作者は老いというよりも死を意識されていて、ユーモアやウィットのある句は、死の意識とは裏表にあるようだ。同年輩の人たちの死亡記事を新聞で読むという句には無常観がこもっている。
掲句は入院される前の新年詠。作者は年賀状の中に亡くなられた人から届いたことを独り言のようにつぶやいている。このつぶやきには表面的なユーモアというより坂口氏の評のように、この句には死に対する無常観が色濃く漂っている。結果的に鷹夫氏の自画詠となってしまったことに哀悼の意を表したい。
鈴木節子氏は鷹夫氏が入院されて以来、看取りとともに副主宰として「門」誌の運営に超多忙な日々をこなされてきた。そして現在は「門」主宰として引き継がれている。
掲句は鷹夫氏が亡くなられてから公私とも目まぐるしい日々の後、少し落ち着いた頃の感慨句である。なすべき事をなし尽くしたあと、改めて遺影と対面しているうちに故人から話しかけられているように感じたのであろう。〈声の出さうな〉は聞こえてくる印象というより、対話したいという願望の夫恋句であると言える。
早く咲き早く散るのかこの桜 大坪 景章
雛飾る店のうしろは舟着場 大西八洲雄
(「万象」[大坪景章主宰]六月号)
昨今の温暖化のより桜の開花時期はどんどん早くなってきている。しかし大坪氏の句、このような環境変化を踏まえた句ではなかろう。昨今の目まぐるしい移り変わりをアイロニーの視点で眺めている句と解釈した。この月の主宰コラム「万象と共に」では、今年の桜の開花が早かったことで、あわてて桜を見に行ったことから
なぜこうもみんな同じように咲くのか、散るときもまた一斉なのがというようなどこかひねくれたことを感じているのに気づいたのです。
と述べていることから〈この桜〉と断定し、さらに世の中のもろもろのものが先急ぎしている隠喩も含まれていると解釈した。
長年「風」「万象」の重鎮として活躍されてきた大西氏がこの七月に逝去された。常に庶民的な眼差しで詠まれてきた俳句には親しみを持たれ、愛されてきた。
掲句は〈舟着場〉から東京の下町の様子がうかがわれ、雛が飾られている店頭と舟着場が見えるということは、この雛飾りも質素な物であることが推察できる。最後まで大西氏の庶民的な視点が発揮されている句と言えよう。
枇杷色の夕月CO2おそろし 鍵和田秞子
(「未来図」[鍵和田秞子主宰]六月号)
地球温暖化は俳人にも深く影を落としているのだろうか。ただ温暖化を直接テーマに取り上げて詠むことは難しい。しかし掲句は直接〈CO2おそろし〉と詠み、句全体の破調、アルファベットを取り入れた詠みぶりは一種の冒険句とも言える中で、作者は何かに突き動かされるように、このように詠まざるを得ない心境ではなかったのではないか。また温暖化の象徴として〈枇杷色の夕月〉を比喩的に取り合わせたところに不安感を増幅させている。
啓蟄の畑湿めやかにひそやかに 斎藤 夏風
(「屋根」[斎藤夏風主宰]六月号)
啓蟄の候ともなると、畑打ちが始まり、春の息吹が感じられる。掲句は畑打ちが始まろうとしている時期の微妙なうつろいを詠んでいる。〈湿めやかにひそやかに〉は表面的には見えないが、内面的には畑はうるおいを持ち、静かに本格的な春を迎えたと作者は実感しているのである。
雪嶺を四方に桜の咲きにけり 角川 春樹
(「河」[角川春樹主宰]六月号)
角川氏は先人の俳句を前書きに引用した句をよく詠んでいる。掲句は「雪嶺と吾との間さくら満つ 綾子」との前書きがある。細見綾子師は自分自身の立ち位置の中に情感を込めた存問句が多い。さらに掲句はそれを踏まえて、四方が雪嶺に囲まれている綾子と同じ立ち位置で桜を詠んでいる。そして作者が先人綾子と同じ桜を見て、二人と語り合う相聞句としたのである。
耕して日に雨風に土さらす 加藤 耕子
(「耕」[加藤耕子主宰]六月号)
春耕はまず土を掘り返すことから始まる。掲句は、耕される土の表情を丹念に詠んでいる。冬の間は表情を見せていない土は耕しと同時に、ある時は日差しを、ある時は雨風に素顔をさらけ出す。〈日に雨風に土〉の畳み掛けが効果的に働いて大地のたくましさを表現している。
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しかし近年、気候変動の悪化、生態系の破壊など、環境問題が顕在化してきている。このような環境変化にあって、「伊吹嶺」としても自然観察会などにより、少しでも環境問題に関心を持って頂くため、昨年度より「自然と親しむ吟行会」として、二回ほど自然と触れ合う機会を設けた。結果として、多くの皆さんに興味を持って頂き、自然を知るという実りを得た。
以後、栗田主宰より、「環境問題はインターネット部として取り組んでみたら。」とのお薦めもあり、「伊吹嶺」誌ではこのページ、伊吹嶺HPでは「環境コーナー」を開設して皆さんの発言の場を作らせて頂いた。
当面、「伊吹嶺」誌では隔月に掲載し、HPでも毎月情報発信していきたい。今後とも伊吹嶺同人、会員のご協力を得て、進めていきたいと思っている。
なお今回は総論として書かせて頂いたが、今後は各論を皆さんで書いて頂く予定です。
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現代俳句評(「伊吹嶺」7月号)
菱餅の反るを怺へてゐるは紅 鷹羽 狩行
「狩」[鷹羽狩行主宰]四月号)
菱餅は雛壇を彩る一つの小道具で、上から紅、白、緑と三段重ねになっているのが一般的である。雛壇とともに、菱餅が飾られている間、乾燥するにつれ、三段重ねのつなぎ目から剥がれることがある。掲句、乾燥しつつある菱餅への観察眼が鋭い。一番上にある紅色の餅が剥がれそうになる様子を〈反るを怺へてゐる〉と擬人化手法で表現したところに着目した。怺えている菱餅はまさに生きているのである。その生き様が擬人化により菱餅そのものの真実に迫ったのである。そして最後に〈紅〉と名詞で断定したところがいさぎよい。
マスクして此の世を遠くしてゐたり 宮田 正和
(「山繭」[宮田正和主宰]四月号)
「山繭」はこの四月号が四百号記念となっている。高齢化しつつある俳壇で、廃刊に追い込まれる俳誌もあるが、「山繭」の三〇数年の積み重ねは大きい。
掲句、まず〈マスクして〉に己の存在を隠し、変身願望も読み取れる。ということは世の中を客観的に見ることも出来る。その作者の客観的な視線が〈此の世を遠くしてゐたり〉と一歩下がった状態で、街などの風景を見ているうちに、世の中という大づかみな視線に変貌していったのである。さらにひょっとしたら己の存在を消して、世の中を俯瞰して見ているとも解釈出来ると思った。
(「馬醉木」[徳田千鶴子主宰]四月号)
雛飾りは一ヶ月近く飾ることもある。その間、内裏雛は座り続けている。掲句は生命が吹きこまれた内裏雛の存在を詠んでいる。夜、私達は雛の間も灯を消して寝る。しかしその内裏雛はもしかしたら私達が見えないところで、膝を崩しているのではないかと作者は思ったのである。このような表現を得たのは、内裏雛は命を宿していると認識したことから確信したのである。
ひとたびは縺れ別るる花の舞 鈴木 貞雄
(「若葉」[鈴木貞雄主宰]四月号)
掲句、〈花の舞〉は桜が散っている様子を「舞」と擬人化して表現したものであろう。この句は桜を凝視した結果、生まれた。その花びらがもつれては風に散り散りになっているのを丹念に写生している。〈縺れ別るる〉の発見はまさに「花の舞」そのものであり、一瞬の舞である。
(「貂」[星野恒彦代表]四月号)
掲句、〈胸中の火種〉とは何か、気になるところであるが、それは作者自身の思いの中にあるものだろう。〈冬ごもり〉の時期、炬燵に入っていると、いろいろ来し方のことが巡ってくる。そういう時期に自分の胸中にふつふつと湧いてくるものがある。それを「火種」と詠んだのである。その「火種」は「冬ごもり」が過ぎたあとに自身が行動すべきもので、今は埋み火の状態で、じっと抱えているのである。〈火種大事〉から今後行動すべき覚悟を暗示していると解釈した。
天金に春の塵浮き沙翁集 辻田 克巳
(「幡」[辻田克巳主宰]四月号)
「天金」とは洋装本の上方の小口に金箔を貼り付けたものである。掲句、〈沙翁集〉とあることから、相当古いシェクスピア全集で、高級な装丁本であろう。最近読むこともなくなった〈沙翁集〉に塵が浮いているのを発見した。〈天金〉と〈春の塵〉の取り合わせから静かな書斎にある全集に春日が差している情景が浮かんでくる。些細な塵を丁寧に写生することによる発見の句である。
(「笹」[伊藤敬子主宰]四月号)
「笹」誌もこの四月号が四百号となっている。伊藤氏は「日本の美しい季節感を掬い上げ、詠みあげるために、ねむごろな努力をこれからも続けていきたい」と決意を述べられている。
今年は伊勢神宮の遷宮の年である。掲句、神宮の池に蝌蚪を発見したのであろう。〈遷宮を待てる神域〉とおごそかな表現に対して、〈蝌蚪の紐〉の取り合わせが効果的である。また蝌蚪の紐自身も遷宮を待っているとも解釈出来、この取り合わせが俳諧性を持った句となった。
(「天衣」[岬雪夫主宰]四月号)
長良川も郡上あたりまで来ると、清流の名に恥じず、よく澄んだ流れとなっている。掲句の〈澄む水の上に水澄む〉をどのように解釈するかがポイントである。
この句は、作者が底まで澄んでいる水の流れを見ているうちに、澄んでいる水の上に、さらに澄んでいる水が重なっていると実感し、水が何層に重なっていても澄んでいるというこれ以上の清流はないとの郡上への挨拶句であろう。
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秋虹の雫ならんか頰に手に 中坪 達哉
(「辛夷」[中坪達哉主宰]一月号)
虹が夏の季語であるのは、夕立後に見られる鮮やかな色であるのに比して、秋の虹は色も淡く、はかなげに消えていく印象が強い。掲出句の〈秋虹〉も淡くて壊れやすい印象である。今、作者が秋の虹を見ていたところ、雨粒が〈頰に手に〉に触れた。それは秋の虹の欠片が雫となって降ってきたと認識したのである。〈雫ならんか〉の感動の一語が秋の虹に相応しい。
(「蕗」[倉田紘文主宰]一月号)
冬すみれは春に先駆けて咲き出し、花は小ぶりで、はかなげに見える。掲出句、〈冬すみれ〉に対して、〈やさしさはさびしさならむ〉を如何に解釈するかがポイントである。一つの解釈は冬すみれを見て、そのやさしい色をしたすみれは実はさびしい色ではないかと思いやっているのである。もう一つの解釈は「冬すみれ」を仲介に普遍的に〈やさしさはさびしさならむ〉とのつぶやきを詠んだものと解釈出来る。ただ同時作の〈さびしさをやさしき色に冬すみれ〉と詠んでいるのを見ると、やはり冬すみれは寂しい気持を優しくしてくれると解釈できることから、両句とも素直に前者の解釈を取りたい。
寝違ひの首持ち歩く菊供養 鈴木 鷹夫
(「門」[鈴木鷹夫主宰]一月号)
鈴木氏の句はいつも洒脱な味わいを持った心情が見えて、つい共感することが多い。掲出句の「菊供養」は浅草寺の行事で、供えた菊を供養された菊に替えて、病難災難除けに持ち帰るのであるが、たまたま作者は首を寝違えてしまった日に菊供養に出かけたが、その当人が病難除けの菊を持ち歩く動作に自ら俳諧味を感じているのである。〈首持ち歩く〉という意表を突いた表現により首の存在を意識させるところにベテランの味わいがある。
影踏みの子が父を追ふ小春かな 福島せいぎ
(「なると」[福島せいぎ主宰]一月号)
この句を読んで、「影踏み」遊びのはるか昔の記憶がおぼろげに浮かんでくる。掲出句の意は極めて分かり易く、子が父を追いながら、影踏み遊びをしている情景に、現代には貴重な父子のつながりを感じている。あくまで写生に徹した句でありながら、〈小春かな〉の斡旋が懐かしさを呼び起こしてくれる。
(「星雲」[鳥井保和主宰]一月号)
那智の瀧は古代より那智の瀧そのものが神として自然崇拝され、那智大社はこの瀧を神とすることから起こった社である。瀧はその大社から約一km離れており、時に霧がかかることもある。掲出句はその霧で見えなくなった瀧を〈神隠るごとくに〉の表現を得て、神としての位置付けに確信を持ったのである。
人影を水が写して暮の秋 雨宮きぬよ
(「枻」[橋本榮治・雨宮きぬよ共同代表]一月号)
これまで橋本氏が「琉」の、雨宮氏が「百磴」の主宰を務められていたが、ともに秋桜子の師系であることから、この一月号より「枻」として合併、創刊された。創刊の言葉は両氏とも控え目な抱負を述べられ、気負いなく創刊されたことが分かる。
橋本氏の句、この墓は村を見下ろす高台にあるのだろう。墓が〈雪のたつき〉を見下ろすという擬人化表現には、墓に居るであろう先祖が現世の営みを見ていると認識したのである。
雨宮氏の句、この水は風もなく、鏡のような池であろうか。あたかも池の水が実りの秋から冬に向かう人を抱くようで、穏やかな秋の情景である。
放鳥の朱鷺夕焼に羽根を染め 山崎 羅春
(「あきつ」[山崎羅春主宰]一月号)
新潟県に在住している山崎氏にとって朱鷺の存在は重要な関心事であろう。朱鷺は現在、野生絶滅に分類されているが、人工飼育された朱鷺の自然界への放鳥が試みられているのは周知のことである。朱色がかった淡いピンク色の朱鷺が〈夕焼に羽根を染め〉とはこれ以上美しいものはない朱鷺への讃歌である。そして夕焼けの彼方には未来へ続く自然があってほしいとの願望も見える。
(「天弓」[松村昌弘主宰]一月号)
掲出句の山は比較的低い山で頂上まで耕されている畠であろう。〈山の畠天空にあり〉を読むと、松村氏の師系である山口誓子の〈天耕の峯に達して峯を越す〉が思い出される。誓子の句は島の頂上まで耕す営みを理知的の詠んだものであるが、松村氏の句は山の畠とともに〈紅葉黄葉〉と山全体の彩りの華やかさも添えている。そして頂上の畠があたかも天空に浮かんでいるようである。
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殉教も転びも責めも霧の中 今瀬 剛一
(「対岸」[今瀬剛一主宰]12月号)
下段の日記によれば、長崎から雲仙・島原へ大会に参加された折りの句である。掲出句を読んで、私は長崎市外海地区を舞台にキリシタン弾圧をテーマに書いた遠藤周作の『沈黙』を思い出した。作者はこのような地区に来たところ、眼前は霧で何も見えない。〈転びも責めも〉がすべて霧の中に消し去られたように見えるが、眼裏には今なおその悲劇が生々しく残っており、殉教徒を思いやっているのである。一句の中に「も」を三回使うことにより、次第に作者の哀惜の念が増していく工夫がなされ、下五に〈霧の中〉を持って来て効果を高めている。
蟷螂は祈りのさなか枯れきざす 能村 研三
(「沖」[能村研三主宰]12月号)
蟷螂はもともと動作が鈍い。それも冬になればなおさらである。また蟷螂は前肢をすり合わせるしぐさを見せる。掲出句、枯れ始めてほとんど動かなくなった蟷螂のしぐさを〈祈りのさなか〉と認識したところに、動かなくなった蟷螂を的確に捉えている。比喩表現により蟷螂を信徒と見ながら深く写生していることが分かる。
千枚の田の水落とす日本海 棚山 波朗
あかあかとトマトの微熱をさまらず 伊藤伊那男
(「春耕」[棚山波朗主宰]12月号)
棚山氏の句、能登の千枚田であろう。稲は成熟期に入ると田水を落とす。しかも千枚田の水が一斉に落ちる様は印象鮮明である。そして田水はことごとく日本海に消える。稲の実りをもたらした田水を日本海に戻すという人間と自然のいとなみが見え、これが悠久に続くことが日本の原風景と言えるだろう。この句の〈日本海〉がそういういとなみを示唆している。
伊藤氏の句、トマトに焦点を絞った一句一章の力強い句であるが、〈トマトの微熱〉をどのように解釈するかがポイントである。私は二通り解釈した。一つは触覚の句で、トマトの熟す頃の日差しを受けて温みを持っている。そのトマトに手を触れた時の温みを〈微熱〉と表現することにより、トマトの息づかいを感じたのである。もう一つは視覚の句で、この〈微熱〉はトマトが熟した色を見て、トマト自身の熱を感じたのであり、それは上五に〈あかあかと〉を持ってきたからである。どちらに解釈してもトマトの実態に迫った句である。私自身としては後者の視覚から間接的に触覚を感じた句と解釈したい。
耳に手を添へ爽涼の風を聴く 加古 宗也
(「若竹」[加古宗也主宰]12月号)
両耳を手でふさぐと波音や風音が聞こえる経験はよくある。その聞こえる音は人さまざまであるが、掲出句は〈爽涼の風を聴く〉とした作者の感性に感心した。耳に反響する音に爽涼が内在していると捉えたところが若々しく類型のない感覚である。
ぬれぬれととかげのるりの走りけり 関森 勝夫
(「蜻蛉」[関森勝夫主宰]12月号)
掲出句、作者特有の感覚で捉えた蜥蜴の実態に迫った句である。瑠璃蜥蜴の七色が濡れていると感じ、それを〈ぬれぬれと〉の擬態語の発見がきらびやかであるが、一種の不気味さを持っている蜥蜴の表現として適切である。しかも〈走〉以外はすべてひらがな表記により、ゆったりと読ませる工夫もあり、蜥蜴の実態を読者に共有させる効果も見えてくる。
綿虫やひと言足りぬ別れかな 早川 翠風
(「林苑」[早川翠風代表]12月号)
掲出句、友人との語らいのあと、別れたのであろう。しかし作者は別れたあとに何となく違和感を持った。それは〈ひと言足りぬ〉とあるように言い忘れたことが心に残っているのであろう。しかし季語として「綿虫」を選択したことを考えると、はかなげで不規則に飛んでいる綿虫のイメージから、言葉だけでなく心の中にさらに何か落ち着かないものを感じている別れの句であると解釈した。
電柱の影庭に来る白露かな 柏原 眠雨
(「きたごち」[柏原眠雨主宰]12月号)
白露ともなると、涼しさとともに日が短くなり、日差しが低くなる時期である。掲出句は日差しが低くなるにつれ、電柱の影が庭に届くようになったことに気付いた。〈電柱の影庭に来る〉という日常の些事が「白露」季語により静かな詩情を醸し出している。
雁の群一羽落つればことごとく 仁尾 正文
(「白魚火」[仁尾正文主宰]12月号)
今、日本では雁がどんどん見られなくなっている。私は東北の伊豆沼で雁の大群を見たことがあり、まさに掲出句のとおりの情景であった。鉤や棹になっている先頭の雁が誘導しているようであり、先頭の雁が急降下すればたちまちすべての雁も急降下する。その落ちる瞬間を〈ことごとく〉の措辞により、生き生きとした雁の群が目に浮かぶ。
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地下道を抜け海に行く薄暑かな 茨木 和生
(「運河」[茨木和生主宰]十月号)
掲出句の情景はよく分かる。例えば伊良湖岬の海岸へ出る時、一旦道路の地下道を潜ると、すぐ海岸に出る。掲出句の地下道は案外長く、やや暗いところを通っているかもしれない。少しひんやりとした地下道から海へ出た時の明るさと涼しげな暑さは薄暑がぴったりである。地味な句であるが、地下道から海への移動が「薄暑」の季語により実感の伴った句となった。
つばくらとかはほりの空入れ替はる 辻 恵美子
端居して少し老いては戻り来る 市堀 玉宗
(「栴檀」[辻恵美子主宰]十月号)
辻氏の句、夏の夕暮れ時を詠むのに〈つばくら〉と〈かはほり〉を登場させているが、作者が詠みたいことは、暮れゆく空のうつろいであろう。燕が飛んでいる時刻の空のブルーから、こうもりが飛ぶ時刻のダークブルーに変化しつつある空の色を〈空入れ替はる〉と表現した作者の鋭い感性が見えてくる。
市堀氏の句、不思議な句である。端居したあと部屋に戻った時、〈少し老いては〉と表現した解釈が課題である。これは作者の実感として、わずかな時間であってもその端居に老いを感じたのであろう。
さらにこの句の解釈の幅を広げるとしたら、私は中国の「爛柯」の故事を思い出す。この話は晋の時代、仕事帰りの木こりが、囲碁を打っている童子を夢中になって見ているうち、いつの間にか斧が朽ち果て、自分も老いてしまい、時間が一瞬にして過ぎたという故事である。「爛柯」の故事ほどでなくても端居のようなわずかな時間であっても自分は思わぬ老いを感じ、過ぎ行く時間を詠んだ句であると解釈した。
夜の秋手首に心の音を聞く 村上喜代子
(「いには」[村上喜代子主宰]十月号)
脈を取る時、手首に指を当てて心拍数を確認する。掲出句、脈を取ろうとして、手首に触れたが、その脈拍があたかも自分の心を伝えたと感じたのである。〈心の音を聞く〉という意表を突いた表現が秋が近づく静かな夜に実感したことにふさわしく、脈拍を通じて、自分の心と自問自答しているのが伝わってくる。「夜の秋」の季語が動かない。
盆踊輪を絞っては又膨れ 石井いさお
(「煌星」[石井いさお主宰]十月号)
掲出句の盆踊の輪は比較的小さな踊の印象を受けた。〈輪を絞っては又膨れ〉と踊の輪の全体が見渡せるからである。踊の流れの中に、〈絞っては〉の表現を得て、踊の輪が生き生きとしたものとなった。〈踊の輪ちぢんだ処にて手うつ 田川飛旅子〉の句がすぐ連想されたが、飛旅子の句は、縮んだ時の手拍子がポイントであるが、石井氏の句は、絞っては膨れるという踊の流れがポイントである。
露けしや森に還りし士幌線 服部鹿頭矢
(「鯱」[服部鹿頭矢主宰]十月号)
士幌線は帯広駅から十勝三股駅までの短い路線で、国鉄民営化直前に廃線となった。掲出句は、廃止された二十数年後に見た士幌線は線路がすべてが自然の中に埋もれ、〈森に還りし〉という自然の強さを実感した句である。折しも秋も深まった季節感を表す〈露けしや〉の季語が、人工物が自然に同化している悠久ないとなみを感じる。
宙吊りに客仰がせて夏芝居 齋藤 朗笛
(「白桃」[齋藤朗笛主宰]十月号)
掲出句、スーパー歌舞伎の市川猿之助の出し物であろうか。上五、中七が意表を突いた表現であるが、滑稽さも交えた句となっている。〈客仰がせて〉の写生から、観客全員があっけにとられた表情が生き生きと伝わってくる。季語の「夏芝居」に冷房の効いた涼しさも感じられる。
いつしかは己も入る墓洗ふ 若原 康行
(「樹」[若原康行主宰]十月号)
掲出句の墓は、一番近い肉親である父上の墓でも洗っているのであろうか。先祖代々の墓であることから、いずれ自分もこの墓に入ることは当然のこととして、改めて〈いつしかは入る〉と詠まざるを得ない心境に思いやることが必要である。墓を洗いながら、単なる墓洗いにとどまらず、父上と心の中で会話でもしているのではないか。又は自問自答しているのであろうか。そういう存問の句であると感じ、共感を持って読ませて頂いた。
昇りつめ揺らぎはじめし鷹柱 塚腰 杜尚
(「森」[塚越杜尚主宰]十月号)
掲出句、鷹柱の実態に迫った句である。鷹が上昇気流に乗りつつ、弧を描きながら、柱を形成していく。そして最高に昇りつけたかと思ったら、鷹柱が揺らぎ始めた瞬間を捉えている。〈昇りつめ〉〈揺らぎはじめし〉と動詞による写生から「鷹柱」の物の本質に迫っている。
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